杉谷遼 活動ブログ:世界をより良い場所にするために

社会課題解決を通して世界の不条理を減らすために活動しています

災害と向き合うということ(2)

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こんにちは。杉谷遼です。

前回に引き続き今回は「災害と向き合うということ(2)」として、前回の脆弱性を乗り越えるためにある「レジリエンス」という概念を紹介しながら、レジリエンスを高めるために何が出来るかについて書いていこうと思います。

 

目次

1)脆弱性を乗り越えるために

2)レジリエンスとは何か

3)社会的結びつきを強くしよう

 

1)脆弱性を乗り越えるために

前回、日々の社会の中で脆弱性は形成されていくということを書きました。まだ読まれていない方は以下から前回の記事をご覧ください。

https://ryohsugitani.hatenablog.com/entry/2019/10/14/211122

だからこそ、僕たちは日々の社会に疑問を持ちながら、リスクが見えなくなるようなきれいなラッピングに包まれて、脆弱性が形成されていないか考え続けなければならないという内容でした。

今回はそんな個人の姿勢だけでなく、地域やコミュニティといった人同士のつながりが脆弱性を乗り越えるヒントになるということを紹介したいと思います。

途上国には非常に脆弱な地域が多くあります。例えば土地を買うお金がなかったり、政治的な迫害を受けて住む土地がなく、やむを得ずに川辺に住むような状況がまさに洪水といった災害に脆弱な状態です。しかしこのような脆弱な場所で災害が起きた際に被害や復興のスピードに大きな違いが生まれており、それがコミュニティのレジリエンス(粘り強さ、回復力)によるものだと言われています。

ではこのレジリエンスとは何なのでしょうか?

 

2)レジリエンスとは何か

レジリエンスとは、あるダメージに対して被害をなるべく抑え、素早く元の状況へと回復する粘り強さのことを意味しており、メンタルヘルスの分野から今回のような災害分野にまで様々な分野で使われている概念です。

では、この災害分野においてレジリエンスはどのようなものを指すのでしょうか。

先の途上国の例でいうと、そもそもお金や物資といった資源を持っていること、物資を送ってもらえる知人や協力し合える村があること、情報が手に入る環境にあること、コミュニティの中で会合を定期的に行っており、お互い協力し合える環境にあること等が挙げられます。

これを4つにまとめると以下のようになります。

・資源

・外部との社会的な結びつき

・情報

・コミュニティの結びつき

 

これらの4つがレジリエンスを形成しているとされており、脆弱性に対抗して被害を粘り強く抑え、回復を早めている要素になっています。

これは途上国だけでなく、日本でも言えることだと感じています。災害に備えて災害備品を整えておくこと、いざというときに頼れる家族や知人と連絡を取り続けておくこと、自分の地域のハザードマップや避難場所を確認しておくこと、隣人付き合いを上手くやっておくこととすればわかりやすくなるでしょうか。

資源や情報といったものは災害への備えとしてよく取り上げられていますが、それと同じくらい地域の外にいる家族との結びつきや隣人同士の結びつきはいざというときに役に立ちます。この社会的な結びつきという側面をもう少し見ていきましょう。

 

3)社会的結びつきを強くしよう

現代社会、特に都市の生活では社会的な結びつきは弱まっていると言えます。特に地域コミュニティの結びつきは壊滅的だと思います。おそらくほとんどの人、特に1人暮らしの人は自分のマンションに、近所にどのような人が住んでいるかわからないまま生活を送っていると思います。

これは情報技術の発達、物資の充足により自分一人でも生きていくことが出来る環境が出来上がったことが原因にあります。何か困ったことがあっても相談するのは隣の人ではなく、Googleだと思います。しかもそれによって正しい情報が手にはいってしまうため、この傾向は加速してしまいます。

このような状況は非常にレジリエンスが弱い状態にあります。いざというときに助け合うことも難しいですし、避難所での共同生活のような状況になった場合、全く知らない人同士での生活は精神的に疲労します。そのような状況では被害の精神的ショックから立ち直るどころか、さらにふさぎ込んでしまう場合もありますし、復興は進んでいかないと思います。今、日本における災害復興が抱えている大きな問題の1つが確実にこの問題だと思います。

だからこそ、意識的にも僕たちはこの課題を日常の中で乗り越えていかなければならないと思います。非常に身近で、現代においてはメリットを感じにくいことですが、これがいざというときに自分自身の身に返ってきます。いきなり仲良くなるまではいかなくても、毎朝の挨拶や短い会話だけでも全く知らない状況からは大きく変わります。

僕も今住んでいる部屋の隣人には全員挨拶を済ませましたし、お会いした時の挨拶を欠かしていません。特に隣の方は、高齢の方なので何か異変がないか常に気を配っています。

このように身近なところから結びつきを作っていくことが、いざというときのレジリエンスを高めてくれます。防災備品をそろえたり、ハザードマップを確認するのと同様に、ぜひお隣さんとのお付き合いを見直してみてください。

 

台風19号に続き、台風21号による豪雨災害もありました。被害にあった方とその関係者の方以外は段々と災害の恐ろしさが薄れてきたころだと思います。

もう一度「災害と向き合う」きっかけになればうれしいです。

 

※今回はこの記事上で募金、支援を呼びかけることはしませんが、募金、ボランティアといった支援を必要としている被災者の方々は多数存在します。助け合う社会のためにも。ぜひともご協力をお願いいたします。(僕も募金という形で支援します。)

 

今回も記事を読んでいただきありがとうございました。

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災害と向き合うということ(1)

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こんにちは。杉谷遼です。

12日に上陸した台風19号は過去最大の規模で、関東・甲信越を中心に甚大な被害をもたらしました。今も被害にあわれ、苦しんでいる方々がいらっしゃり、今回この記事を書くか迷いましたが、災害の直後で皆さんの記憶が新しいうちに届いてほしい、考えてほしいと思ったため、今回と次回の2回に分けて、災害について考えていることを書こうと思います。

そもそも、僕は大学の卒業論文、大学院の修士の研究のどちらも災害分野に身を置いていたため、災害というものに関してある程度の知見があります。そんな僕が今回の台風19号という災害を通してみなさんに考えてほしいことを書いていきます。

 

目次

1)災害とは何か

2)脆弱性という概念

3)脆弱性を乗り越えるために

 

1)災害とは何か

日本は災害大国だということがよく言われていますが、そもそも災害とは何なのでしょうか?災害による被害は以下のように定義されています。

災害の被害=ハザード×社会システム

専門用語が出てきたため、一つ一つ簡単に解説していきます。ハザードとは自然現象の客観的な強度のことです。例えば今回の台風で言えば雨量、最大瞬間風速、中心気圧等、今回の台風を数値で表す指標がたくさんありました。他にも地震で言えばマグニチュードや震度等で表すことが多いと思います。一般的に災害というとこのハザードの大きさのことをイメージする方が多いのではないでしょうか。

しかし、災害はこのような自然現象の強度のみでは定義されません。これに社会システムという自然現象ではなく、人為的な側面が入ってきて初めて災害の被害となるのです。これは少し考えてみれば当たり前のことですが、誰も住んでいない場所で大規模なハザードが発生しても、そこには社会が存在しないため、この場合の被害は0となります。つまり社会がない場所、人が住んでいない場所では災害の被害は0なのです。

ではこの社会システムはどのように出来ているのでしょうか。

社会システムは以下のように定義されています。

社会システム=曝露×脆弱性

曝露とはどれほどその社会がハザードにさらされるかです。例えば今回の台風で言えば洪水、河川の氾濫というハザードに対して、河川沿いの地域は曝露が高かったと言えます。逆に高台の地域は曝露が低いと言えます。

また、脆弱性とはそのハザードに対する社会の弱さを意味します。例えば今回河川の氾濫というハザードに対して、死者が出てしまった地域もあれば、避難退避がしっかりできており死者を出さなかった地域もあります。同じ曝露であっても大きな被害となる地域と小さな被害で抑えられる地域があり、その違いが脆弱性という概念です

 

2)脆弱性の形成

ここで、社会の脆弱性がどのように形成されるかを考えてみましょう。そもそも河川の氾濫が起きる可能性のある地域に多くの人が住んでいる状態自体が非常に脆弱であり、社会自体が気付かぬうちに脆弱になっていたことが、今回の台風被害だけでなく、東日本大震災や先月の台風15号の被害、九州地方での大洪水被害といった大きな被害を生む災害の根本的な原因にあります。

ではなぜこのように脆弱性が形成されていくのでしょうか。今回の台風を受けてTwitter上でこんな声が出ていたので紹介します。

https://togetter.com/li/1416315

都内近郊で浸水、冠水した地域の特徴は、、、という内容ですが、SNS上で話される内容にしてはかなり本質をついている指摘だと感じています。

仮説ベースではありますが、今回このような地域で浸水、冠水により人的、物的被害が大きく出たのは、都市の再開発、地域のブランディングという社会の側面が大きく関わっていると思います。特に田園調布や二子玉川と聞くと、高級住宅街があるといったイメージがあるのではないでしょうか。それに合わせて商業施設を建てたり、そこに住むこと自体がステータスになるような流れを作り、この土地に多くの人が住むように促してきたのは紛れもなく政治的な側面であると考えています。元来水害への曝露が高いにも関わらず、リブランドをして人気住宅地とすることにより、人が住まなかった地域に人が住むようになり、高級住宅街にすることでお金がその土地に落ちる、そのようにしてこの脆弱性は形成されてきたのだと考えています。

 

3)脆弱性を乗り越えるために

このような脆弱性を乗り越えるためには、僕たち一人一人が社会というものの動きに対して感度を高くもち、疑問を投げかける姿勢でいることが必要です。

社会の動きに対してなすがままで思考停止してしまうと、大きな力が動かす方向へと流れて行ってしまいます。都市開発をする際に、誰もその地域の脆弱性を考えてはくれません。ほとんどの場合大切なことは、どれくらいの人がここに住み、どれほどの経済的な価値を生み出すのかです。災害といういつ起きるかわからないリスクと目の前に確実に生み出される利益を正しく判断できる人はほとんどいません。(これは自分が判断する側になっても同じことだと思います。それほどリスクによるコストと利益を適切に評価することは難しいです。)

だからこそ、判断する人に任せてはいけないと思います。僕たちがしっかりと思考し、判断し、行動することが必要なのです。よく言われていることですが、自分の身は自分で守るというのはかなり本質を突いた言葉だと感じています。

 

以上のことをまとめると、今回の台風を受けてまず考えてほしいことは、災害の被害は社会システムの脆弱性という形で日常生活に埋め込まれていることです。そしてそれに対して疑問を持たない限り、僕たちは気付かぬうちに脆弱な社会を形成し、ハザードに対して非常に弱くなっているのです。だからこそ、今日この日から、自分の暮らす社会をしっかりと見つめなおしてください。疑問を持ってください。それが災害と向き合うことの第1歩だと思います。

 

※今回はこの記事上で募金、支援を呼びかけることはしませんが、募金、ボランティアといった支援を必要としている被災者の方々は多数存在します。助け合う社会のためにも。ぜひともご協力をお願いいたします。(僕も募金という形で支援します。)

 

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お金と価値の関係性

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こんにちは。杉谷遼です。前回から日にちが経ってしまいましたが、ソーシャルビジネスに関する連続記事の最終回を書こうと思います。

最終回はソーシャルビジネスが今後、将来的に資本主義経済において、どんな役割を果たしていくのかということについてです。

 

目次

1)ビジネスと社会性に付きまとうお金の問題

2)結局お金って何なのか

3)お金と価値の関係性を回復するために

 

1)ビジネスと社会性に付きまとうお金の問題

今回、この3つ目の記事は別の内容にする予定だったのですが、先日僕が加入している国際協力サロン(詳細は以下)で、ソーシャルビジネスに関するオンラインカンファレンスを行い、これを受けて、内容を変更しました。

https://readyfor.jp/projects/development-lab

 

オンラインカンファレンスではソーシャルビジネス、NPO、企業といった3つのアクターからどんな問題に困っているのか、ソーシャルビジネスの未来は?ということについて議論させていただいたのですが、そこで1つのキーワードについての議論が大いに盛り上がりました。

そのキーワードが「お金」です。

大企業が社会性に配慮していく際に障壁になるものが企業の資本である株式を握っている株主や投資家

NPOは寄付金と事業利益のバランスを維持しなければならないため、企業のように大きく動くことが出来ない

etc...

ソーシャルであることが「お金」によって大きく制限を受けていることがこのオンラインカンファレンスで如実に描き出されました。

ビジネスにも社会性にも「お金」は付きまとう、考えれば当たり前のこの事実ですが、改めて強く突き付けられたことで、僕の中で考えるきっかけになりました。

 

2)結局お金って何なのか

僕の中でまず考えたこと、それは「お金」ってもともと何なんだっけ?ということでした。投資家たちが繰り広げるマネーゲーム、それによって大金が動き、企業の動きに変化が生まれ、この社会に影響を与える、その媒介となっている「お金」は何者なのか?という疑問でした。

もとを辿ればお金は価値の交換物だったはずです。物々交換をするのに持ち運べないようなものや、モノではないサービスといったものを価値として認め、それをお金という統一されたモノに交換することで、流通や売買がスムーズになり、経済が活性化する。そんな仕組みのもと生まれたお金はもともと価値の代替物だったはずです。

しかし現代ではお金そのものが価値を生み出すものになっています。そしてお金を生み出さなければ無価値とも言われるほどになっています。

いつの間にか価値の代替物だったお金は価値そのもの、価値の源になってしまったんだと感じました。だからこそ、マネーゲームというお金をハンドリングすることが大金を生み出し、まるで大きな価値を生んでいるかのような構造になっているんだと思います。

そうやって本来的に価値のないことに価値を創り、資本主義経済は拡大を続けてきました。そのツケが今来ているのではないかと僕は思います。お金を持っていなければお金を生み出せない構造、それによる格差の拡大、貧困から抜け出せない人々、環境に配慮すると言いながら出来ない社会。そんな様々な問題が資本主義経済の歪みとなって表れているのではないでしょうか。

 

3)お金と価値の関係性を回復するために

そんな状況下でソーシャルビジネスがどうなっていくか、ソーシャルビジネスの未来は?と考えたとき、前回、自分が書いた記事を思い出しました。

(まだ読まれていない方は以下からぜひ)

https://ryohsugitani.hatenablog.com/entry/2019/09/22/222616

「ソーシャル」とは社会性に配慮することで新しい価値を生み出すことだと書きました。そしてソーシャルビジネスとはその生み出した価値にお金をのせていくことだと思います。今までお金にならないから無価値で、ボランティアじゃないと出来ないと思われていた領域から価値が生まれ、それにお金がのっかっていく。これこそお金と価値の本来的な関係なのではないかと思います。

だからこそ、ソーシャルビジネスの資本主義経済に対する意義は、お金の暴走の発端となった価値とお金の関係性を回復していくことにあるのではないかと考えています。本当の意味で「ソーシャル」な活動がビジネスになっていき、生み出した新しい価値に「お金」がのってくるという流れが、副次的にお金と価値の本来の関係性を回復し、資本主義社会の暴走に待ったをかける。そんな未来がきっと資本主義社会の中でのソーシャルビジネスの描く理想像なのではないかと考えています。

その理想像に近付くためにも、僕たちは「ソーシャル」を考え抜き、「面倒」なことに立ち向かっていかなければならないんだと思います。ビジネスとしての新しい動きを生み出すと同時に歪になった資本主義経済の是正というより大きなチャレンジに向けて今後も挑戦していこうと思います。

 

今回も記事を読んでいただきありがとうございました。

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ソーシャルから「ソーシャル」へ

 

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こんにちは。杉谷遼です。

前回に引き続き、ソーシャルビジネスに関する3連続記事の2記事目になります。

前回は社会や環境といった他者に配慮しながら、自己の利益追求を続けることは非常に面倒だが、それを乗り越えることで価値が生まれるということを書きましたが、今回はさらに遡って、ソーシャルとは何か?というそもそもの部分について個人の意見を書いていこうと思います。

 

目次

1)ソーシャルの魔力

2)ソーシャルは「正しい」のか

3)ソーシャルから「ソーシャル」へ

 

1)ソーシャルの魔力

Social=社会性と訳されますが、現在この言葉は主に、利益追求やビジネスという言葉とは対極にある言葉として使われることが多くなっています。

社会や環境に配慮すること、ビジネスでは今まで扱われてこなかった利益につながらないようなことをソーシャルと呼んでいます。そのため、NPONGOはソーシャルセクターと言われたり、社会性に配慮しながら利益追求するビジネスをソーシャルビジネスと呼んでいます。

僕はこのソーシャルという言葉の使われ方に疑問を感じています。

例えば、自動車を製造し販売することはソーシャルではないのでしょうか?チェーン展開でサラリーマンの昼食を支える牛丼屋はソーシャルではないのでしょうか?

社会性という意味であるならば、自動車は人々の移動を支え、特に都市部以外ではメインの移動手段として人々の生活の支えになっていますし、牛丼屋は幅広い人々に安くておいしいご飯を提供し、時間の節約と多くの人の空腹を満たすことで生活を支えています。これは立派な社会性だと僕は感じています。

では、なぜこのような事業はソーシャルと呼ばれないのでしょうか。

おそらく、多くの人の頭の中でソーシャルというのは「お金にはならないが倫理的に必要なこと」という認識があるからではないでしょうか。

ここで重要なことは「倫理的に必要なこと」と認識されていることです。

例えば飢餓に苦しむ途上国の子供のために募金を、という事業は明らかに社会的で倫理的に必要なことだと認識されているでしょう。しかしそこにソーシャルの魔力とも呼ぶべきものがあります。

 

2)ソーシャルは「正しい」のか

「魔力」と呼んでいるのは、昨今のソーシャル絶対主義のようなものがソーシャルという言葉を絶対善のように扱っているからです。簡単に言えば、社会や環境に配慮するものがすべて正しいという考え方です。

例えば、(極端な例とは思いますが)コンビニエンスストアは身近な存在で、簡単にアクセスできるためにイスラム教徒の食事の問題に配慮して、食べることの出来るハラルフードを全てのコンビニエンスストアに置くことを求めることは正しいのでしょうか。

僕はこれに対して違うと答えたいです。

ソーシャルであることは素晴らしいことです。しかし、ソーシャルだからという理由で全ての要求に対して答える必要はないと思っています。

先の例であれば、ハラル認証のコストや独自商品の開発といったコストに対して、イスラム教徒への売り上げが見込めるのであれば実施するべきだとは思いますが、それは各社の経営判断です。

つまり、ソーシャルだから「正しい」のではなく、ソーシャルであることによって「価値」が生めるから正しいのです。

このことをはき違えてしまうと、ソーシャルという言葉は暴走してしまい、何でもかんでもソーシャルの名のもとに話が進み、社会全体で大きなコストを背負うことになります。ソーシャルだから倫理的に正しいことだと話を進める前に、そのソーシャルによってどのような価値が生まれ、どのようなコストがかかるのか、ビジネスで言えば当たり前の経済性の議論が必須だと思います。

 

3)ソーシャルから「ソーシャル」へ

だからこそ僕はソーシャルという言葉を、「お金にはならないが倫理的に必要なこと」として認識してほしくはありません。

僕の考えるソーシャルとは「お金にはならないかもしれないが、社会に配慮することで新しい価値を生むこと」だと考えています。だから、この文脈では「ソーシャル」もビジネスも、価値を生む行為として同じものだと考えています。ただ、「ソーシャル」は社会性に配慮することで、従来のビジネスでは生み出すことの出来なかった価値を新しく生み出すから、昨今注目されているということだと考えています。その一点のみでしか「ソーシャル」とビジネスは異なりません。だからそもそもソーシャルとビジネスを対極の概念として捉えること自体がナンセンスなんです。

ソーシャルの魔力から逃れ、新しい価値を生み出す「ソーシャル」が注目されることで、資本主義社会の今抱えている停滞感は少し解消されるのではないでしょうか。

生み出される新しい価値という視点でぜひ身の回りのNPONGOやソーシャルビジネスを見てもらえるとまた見える景色も変わってくるのではないかと思います。

 

今回も記事を読んでいただきありがとうございました。

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「優しい」ことは「面倒」だ

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(カンボジア・シルクの手織りストールの生産者、途方も無い作業だからこそ製品は価値のある輝きを得る)

 

こんにちは。杉谷遼です。

今回から3回連続でソーシャルビジネスについての記事を書こうと思います。

今回は僕が日々の仕事、ソーシャルビジネスというものを通して感じている、「優しくある」ことには非常に大きな負荷がかかっているということ、そしてその負荷を乗り越えていくことに価値があるということについて書こうと思います。

 

目次

1)他人を思うことは難しい

2)結局ビジネスは社会を歪ませている

3)面倒なことをやり抜くことに意味がある

 

1)他人を思うことは難しい

ありきたりな場面ですが、電車で老人が前に立ったら皆さんはどうしますか?道徳的に席を譲るべきだということは多くの方が認識しているのではないでしょうか。

それでは、もし徹夜の仕事明けで体調も厳しく座っていたい場合はどうでしょうか。それでも譲るという方は本当に素晴らしいと思います。僕自身の場合、譲ろうとは思うものの譲れる自信はありません。

なぜならば、結局は自分が大事だからです。家族なら、命を懸けても守りたい人なら別かもしれませんが、見ず知らずの老人よりも疲れ果てて今にも死にそうな自分の方が大事です。

みなさん全員がそうとは言えないと思いますが、多くの人が僕と同じなのではないかと思っています。他人を気遣えるのは自分に余裕があるときで、自分自身に余裕がないときは他人のことを思うことができない。これは当たり前のことなんだと思います。

目の前に立つ老人にに対してすらそうなのですから、どこか遠くの人や顔も知らない誰かのことを思うことはより一層難しいことだと思います。

 

2)結局ビジネスは社会を歪ませている

そんな他人を思うことの難しさはビジネスの世界で一番痛感します。世間では大企業を中心に、利益追求だけでなく社会性を大事にしようという大きな流行があります。SDGsの認知の広まりもあり、企業は社会や環境のことを無視できない状況にあるため、このような流れが生まれています。しかし、本当に社会や環境といった他人を思いながら事業が出来ているのでしょうか。

以前Twitter上で議論になっていた、JR駅中での自販機のサブスクリプションの話題を紹介します。

ニュース記事は以下

https://www.gizmodo.jp/2019/08/subscription-beverage.html

JR東日本CSR

https://www.jreast.co.jp/company/csr/

今回議論になっていたのは、JR東日本CSRとして、環境、社会に関しても配慮した経営をしますということを掲げているにもかかわらず、全世界的に環境問題の懸念から使用を控える動きが主流のペットボトルの使用を加速させるような経営判断をしたことです。

この記事を見たときに、ビジネスの世界では他人を思うことが本当に難しいということを実感しました。ここまでCSRや社会性というものを大切にということが言われている時代で、思いっきり真逆のことが出来てしまう。それがビジネスの利益追求の本性なのではないかと感じました。

食うか食われるかの世界とよく言いますが、利益を追い求めることは、今の利益を守ることも含みます。いつどっちが奪うか奪われるかわからない状況で、他人を思うことは難しいのでしょう。だからこそ大企業がここまで社会性というものが大事ということを叫んでも、ビジネスの性質上、資本主義の性質上、社会は歪んでいってしまうのだと思います。

 

3)面倒なことをやり抜くことに意味がある

ビジネスの世界では他人を思うこと、社会性を保ち続けることは非常に大きな負荷になります。例えば、途上国の工場で生産をしているファストファッションの某ブランドはCSRとして、現地で働く人々の労働環境への配慮を掲げています。この点で、マザーハウスとこの某ブランドは掲げていることは同じです。

しかし、本当に現地で働く人々の労働環境に配慮するのであれば、商品自体を安くすることは難しくなりますし、大量に生産することも難しくなります。もちろんですがそれを我々消費者は良しとしません。結局、ある程度生産者の賃金や労働環境を下げてでも安く大量に消費者に商品を提供することがビジネスとして大切になってしまいます。

ビジネスにおいて他人を思うことは負荷なんです。社会性を維持することは大きなコストがかかるんです。「優しい」ことは「面倒」なんです

しかし、マザーハウスはそれを諦めていません。前回紹介した「サードウェイ」でも書かれているように、大量の生産注文に対して休日出勤で乗り切った現地工場にすぐに出向いて叱責し、日本側も現地側もこのようなことが2度とないようにすると約束したというエピソードもあります。

その分マザーハウスでは、輸送コストを減らしたり、値段が高くなっても買っていただけるように接客力の向上を目指したりと様々な工夫をしながら、「面倒」なことを続けています。それが段々と認められ、今のマザーハウスがあります。

社会性との両立という面倒な道に向かい合ってきたからこそ、それを乗り越えるための努力や工夫が今となってはマザーハウスの価値となっています。

その意味で、ソーシャルビジネスは「面倒」なんだと思います。でもその「面倒」さを乗り越えたところに、今の資本主義社会の中では出てこないような新しい価値が生まれるのだと信じています。

 

今回も記事を読んでいただきありがとうございました。

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文化という思考停止をやめよう

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(カンボジア・川辺のスラムと対岸に見えるプノンペンの都市)

 

こんにちは。杉谷遼です。

今回は、国際協力の場面で僕が良く耳にする、「そういう文化だから」、「そういう慣習だから」といった文化や慣習という言葉に関して考えていることを書こうと思います。

 

目次

1)文化という言葉で片付けることの危うさ

2)文化を創り出したのは人間

3)文化の裏に潜む本質を見よう

 

1)文化という言葉で片付ける危うさ

僕は国際協力に関する議論の場面で、よく「そういう文化だから」という言葉を耳にします。そのたびにどこか気持ちの悪い、納得しそうでしていないような気分になります。

例えばある東南アジアの国でビジネスをしている方の相談を受けたとき、現地の従業員がよく休むのに困っているが、向こうの人はそういう文化だから仕方ない、といったことを聞きました。現地の従業員が仕事をよく休むということはよく聞く話ですが、それを文化という言葉で片付け、それ以上思考を進めないことに僕は一種の危うさを感じています。

この例以外にも、多文化理解、異文化理解ということも広く言われていることですが、多文化、異文化を理解しようということに関しては何も異論がないのですが、文化が異なるということを前提に、自分たちと異なるバックグラウンドを持つ人々をカテゴライズすることは、文化という言葉でのラべリング以上の理解を阻害しているのではないでしょうか。

簡単な言葉にすると、彼ら彼女らと僕たちは違う文化だからそれを認めていきましょうということは、彼ら彼女らを文化が違うから僕たちとは異なる考え方を持っている人だと認識をしようということになっているのではないかということです。これは本当の意味で多文化理解、異文化理解なのでしょうか?本来的にはその人たちのバックグラウンドを理解した上で、なぜ異なる考え方になるのか、なぜ異なる文化を持っているのかを理解することこそが多文化理解、異文化理解なのではないでしょうか

 

2)文化を創り出したのは人間

そもそも当たり前の話ですが、「文化」や「慣習」というものは人間が創り出したものに過ぎません。ということはなぜこの文化が浸透してきたのか、慣習化してきたのかということの裏には、非常に合理的で、納得し得る理由があるはずです。

例えば先の従業員が仕事をよく休むという文化の裏には、仕事に対する熱意<家族との時間共有の大切さという価値基準があり、それは歴史的に家族による互助関係が単独での生活以上に大切にされてきたという事実があるのかもしれません。また、そのような事実も、過去の為政者が人々を家族単位で管理をしたかったために、そのような法律を制定していたといったことが原因にあったかもしれません。

(※以上に述べたことはあくまでも例示であり、事実に基づいているものではありません)

このように、文化や慣習というものはある人間が意図をもって作り出したり、多くの人が合理的だと感じて継続していくことによって成立、浸透していくものです。だからこそ、文化だからという言葉で思考停止するのではなく、その先のなぜその文化が成立したのか、浸透してきたのかという部分まで考えを巡らせて、理解することが本当の意味での異文化理解なのではないでしょうか。

 

3)文化の裏に潜む本質を見よう

文化という言葉で思考停止せずに、その先にある文化浸透の理由まで考えていくことは、非常に本質的だと考えています。

例えば、先の例で現地の従業員がよく休むという問題を文化だからと諦めて付き合っていくよりも、仕事<家族ということが歴史的にしみついているからだという理由まで理解することが出来れば、家族と一緒にいながらでも出来る仕事と会社に来てやって欲しい仕事を分けて伝えることで、休みながらでも生産性をキープすることが出来るかもしれませんし、さらには従業員の家族と食事に行ったりすることでより密な信頼関係が築けるかもしれません。

また、理由まで理解しておくことで、同様の理由で発生する他の事象まで想定できるというメリットもあります。例えば家族優先のため、早く帰りたい、長期で休みが欲しいという申し出が出ることも想定できるため、予め結婚式等の家族の予定を共有してもらったり、朝の段階で今日家族の予定で早退したい人はいないか確認することで、業務量を調整する等の対策を打つことが可能になります。

このように、文化という言葉で思考停止してしまうことは、本当の意味で現地の人びとや異文化の人びとのことを理解することを阻害しており、そこを超えてなぜこの文化が生まれたのか、浸透してきたのかと考えることで、より本質的にその人々のことを理解できるのではないでしょうか。

ぜひ議論をする際など、もう一歩先の本質的な部分に到達するためにも心がけていただければと思います。

 

今回も記事を読んでいただきありがとうございました。

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サードウェイはすでにたくさん存在する

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(8月13日発売ハフポスト:Third Way 山口絵理子著)

 

こんにちは。杉谷遼です。

今回は2019年8月に発売になったマザーハウス社長兼デザイナーの山口さんの「サードウェイ」を読んで感じたこと、考えたことを書こうと思います。

 

目次

1)サードウェイとは

2)現代社会ではサードウェイが求められている

3)サードウェイとは新たに創造するものではないかもしれない

 

1)サードウェイとは

「相反する二軸をかけ合わせて新しい道を創造する」

これが山口さんの考えるサードウェイの定義ですが、これを聞いたとき中庸、折衷案と何が違うのかと正直疑問に感じました。これに対してすぐさま、

「私が本書で提示するサードウェイは、そうではない(妥協案、折衷案ではないの意味)。AとB(という対立する2つのもの)のいいところを組み合わせて、新しいものをつくる。そして、ときにAに寄ったり、Bに寄ったりしながらも、らせん階段をのぼるように上昇させていく」

それがサードウェイだとのこと。となると僕の頭に次に浮かんだ止揚(アウフヘーベン)ともどこか違うようなイメージを持ちながら本書を読み進めていきました。本書の中では山口さんがマザーハウスを経営していく中で、多くの困難にぶつかりながらも途上国と先進国、ビジネスと社会性等様々な対立するものの中にマザーハウスという第3の道を作ってきたことが語られており、初めはピンと来なかったサードウェイというものが明確になってきました。

本書を読んで僕なりにサードウェイを定義するのであれば、

「相反するように見える2軸の光の部分の掛け算で生まれるものを信じ続けること」

となりそうです。この中で特に「光の部分の掛け算」、「信じ続けること」がキーワードになりそうだと考えています。(詳細は後程)

 

2)現代社会ではサードウェイが求められている

現代には非常に多くの2項対立が存在します。例えば、前回記事にさせていただいたアマゾンに代表されるような開発と環境の問題があります。

ブラジルからすれば森林の伐採によって開発を進めて少しでも輸出量を増やしていきたい、しかしその一方で世界的な視点で見れば非常に貴重な自然資源であるアマゾンの森林を守っていきたい。まさに開発と環境保全が相反する2軸になっています。

これは決してアマゾンだけの話ではなく、CO2排出量を制限しようという議論の段階から、先進国は自分たちの発展の時には何も気にしていなかったくせに、今頃になって環境のことを気にし出し、途上国の発展を妨げるような国際条約を結ぼうとしていると対立したこともありました。

このように開発と環境保全という相反する2軸の両立を国際社会は今の途上国と言われている地域に求めているわけです。しかし、多くの場合この2軸のうちのどちら寄りにスタンスを取るかという議論に終始しており、サードウェイがあるのではないかという議論はあまり生まれていないように感じます。実際に今回のアマゾンの件でも、ボルソナロ大統領はJICA等の支援を受けて開発よりのスタンスでしたが、国際批判を受けて環境保全の方向に少し揺り戻される形になっています。しかし、2つを本当の意味で両立していくようなサードウェイ的な議論はなされていません。

この例に見るように、現代社会は2項対立の対立軸の上での議論に終始してきました。しかしそれだけでは今後の本当の意味での発展は望めないのではないでしょうか。

だからこそサードウェイを模索していくことが現代社会にとって本当に価値のあることになってくると考えています。SDGsという目標もこのサードウェイ的な議論の先にある目標だと感じています。

 

3)サードウェイとは新たに創造するものではないかもしれない

ここまででサードウェイ的な考え方が非常に重要だということを書いてきましたが、どのようにサードウェイを見つけていったら良いかという部分に話を移しましょう。

最初に述べたように相反する2軸のいいところを組み合わせる、光の部分の掛け算ということが1つ目のポイントです。開発の光の部分、それは人々の所得安定化、それによる貧困削減や公衆衛生の改善です。逆に環境保全の光の部分、それは森林のエコシステムを守ること、それによって空気中の二酸化炭素濃度の上昇を抑え、気候変動の激化を防止することにあります。これらの光の部分を同時に満たすものはないのでしょうか?

僕が少し考えただけでも、森林保全をした上で国立公園のような形でのエコツーリズムのようなアイディアがパッとですが浮かびました。他にもきっと何個もあると思いますが、おそらくこれらの選択肢を選ぶことはできません。それはどうせ大した額にならない、森林伐採による開発の方が儲かるといった批判かもしれません。又は、そんなことが実現できる可能性は無いに等しい、成功している国も少ないじゃないかといった批判かもしれません。

いずれにせよ「光の部分の掛け算で生まれたもの」を「信じ続けること」が出来ないからサードウェイを選べないのではないかというのが僕の考えです。

ここは山口さんの意図していることと異なるかもしれませんが、そういう意味で「いいところの組み合わせ」で生まれるものは必ずしも「新しい」ものではないのではと思います。

きっとパッと思いついたけど実現性が低そう、実現するのが非常に面倒なものだったり、誰かに批判されて無理だと諦めてしまったものだったり、サードウェイの種はたくさん転がっていると思います。

だからこそ、本当にサードウェイを進んでいくために重要なことは、その道を信じ続け、面倒であることを愚直にやり抜くこと、批判されてもやり抜くことだと考えています。

そんな面倒で難しいことをやり抜いてきたからこそ、今のマザーハウスや山口さんに価値があるのだと本書を読んで本当に強く感じました。

 

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