杉谷遼 活動ブログ:世界をより良い場所にするために

社会課題解決を通して世界の不条理を減らすために活動しています

あなたの正義は何か-主語のない正義が溢れる現代で-

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お久しぶりです。杉谷遼です。

2021年に入り、早くも9か月が経ちましたが、その間更新が全くなく申し訳ありません。今後もマイペースな更新となりますが、引き続き読んでもらえると嬉しいです。

 

さて、そんな9か月の間を乗り越えて記事を書こうと思い立ったのは、最近の社会情勢の報道や発信などで、違和感を感じることが多くなっていて、その違和感の正体が自分の中で様々な事象や考えていることとつながったことがきっかけです。

今回は様々な事象を行き来しながら、何を善として何を悪とするのか、その判断をする「主語」の存在について書いていこうと思います。

 

目次

1)違和感の出発点

2)切っても切れない事実と認知

3)主語のある正義を語る

4)あなたの正義は何か

 

 

1)違和感の出発点

今回この記事を書こうと思った一番大きな出来事はアフガニスタン情勢の変化です。20年にも及んで駐留していた米軍の撤退と、それに伴うタリバン政権の復活。その中で国外退避を目指す人々の悲劇はニュースなどでも報道されてきました。

そんな中で違和感を感じたのは、タリバン政権の復活によって、女性の人権保護の観点やテロリストの温床になる、武力による統治が行われるなど、今後の見通しに関して悲観的な報道が非常に多かった点です。

このような変化を悪としているのは誰なのか?ということがすっぽりと抜けてしまっているように感じたからです。

 

僕たちは国際社会や近代社会という便利なグルーピングで、いつの間にか自分たち以外の暮らし(例えば民主主義や資本主義経済ではない社会の在り方)に対して、悪である、劣っているという認識を植え付けられているように感じます。自由で平等な暮らしは本当に手放しで称賛されるべきことなのか、それがなぜ正義なのかという根本的な問いが抜け落ちてしまっているように感じるのです。

 

だからこそ本来あるはずの「自由と平等という原則に立つ国際社会として」という主語と共に語られるべき、タリバン政権の統治に対して悲観的であるという議論がごく自然に、何の疑問も持たずに主語なしで成り立っているのではないでしょうか。

 

かなり前の記事になりますが、僕は出来る限り物事の両面を見るように心がけているということを書かせていただきました。

ryohsugitani.hatenablog.com

 

ここにも書いているように、欧米を中心とした国際社会スタンダードに立てば、悲観的なことと認識されるのは納得できます。ただ逆にイスラム的な考え方に立つと、必ずしも悲観的ではないのではという印象も持ちます。

このどの視点に立っている人の意見なのか?という意味で一方的な悲観的報道に対して違和感を強く感じました。

 

2)切っても切れない事実と認知

本来、善悪は主観の議論です。どんな事実に対してもそれを善とする人もいれば、悪とする人もいます。つまり、善悪はあくまでもその人がどう認知しているかの話でしかないのです。

その一方で、この事実と認知というものは僕たちがコミュニケーションをとる上で完全に切り分けることは不可能です。実際に様々なニュースや論文等が事実と認知を区分けできているかという調査をした方から伺った話によると、認知が入っていないと判定できるものは2%に満たないとのことでした。

つまり、どんなに科学的に認められている研究論文であっても、事実だけを伝えるということはほとんど出来ておらず、そこには必ず人の認知が入っているということです。

 

これも聞いた話で面白い事例なのですが、とあるアフリカの国で空港が建設されたとき、その地域の経済活動自体が一時的に落ち込んだということがあったようです。このとき、国の行政機関や国際社会はこれを空港を経由する貿易上の問題として捉えたのに対して、その地域の人々はその空港が魔女が利用している空港で、そのせいで問題が発生していたと認識していたという話です。

 

同じような話で、呪術の話もあります。西洋医学が届いていない地域において呪術による治療で症状が回復したという事例はいくつもあります。僕たちは病気になったら病院に行って、診断をしてもらい、薬を処方してもらい治療するというのが当たり前になっているせいで、呪術=まじないの類だと認識しがちですが、その地域の人からすれば、僕たちが病院に行って治療をしてもらうのと同じ認識なのです。

 

つまり病気が治るなどの事実にたどり着くロジック(=認知)というのは、本来非常に自由度が高く、それを国際政治学や医学などの広く認められている学問体系でまとめ上げることが出来たとしても、それはあくまで認知の体系であり、「学問を基盤として思考している人」としての正確さ、正しさしかないということです。
※自分自身も「学問を基盤として思考している人」の1人なので学問を冒涜する意図はありません。

 

言い換えれば、魔女や呪術といったものを事実として誤っている、劣っていると断定することは出来ず、「自分の認知としては」誤っているということしか言えないということです。

 

3)主語のある正義を語る

このように見ていくと、自分自身がどんな認知バイアスをかけて物事を見ているか、そしてそれを認知バイアスであると認識できていない状況というのが恐ろしいなと感じました。

 

ワクチンの異物混入で、陰謀論的に全人類にチップを埋め込んでいるなどという説がにわかに盛り上がっていましたが、「陰謀論があまり好きではない人」である僕としては、良くそんなことが考えられるな、ありえないよという考えですが、この説に熱狂している人ももちろんいるわけです。

 

そして、これと構造的には何ら変わりない認知バイアスが知らぬ間にかけられています。最初の話に戻ると、タリバン政権の復活が悪であるかのような報道は、知らぬ間に僕たちを支配してきていると感じます。街中で怖いよね、かわいそうだよねというような話を聞いたりするたびに、「自由と平等という原則に立つ国際社会」というグループがまるで当然のような顔をして空白の主語に居座っていることを感じます。

 

こうして知らぬ間に、そして対象について詳しくなる前に、認知バイアスによって意見が形成されてしまいます。これは、先ほどのワクチン陰謀論を知らぬ間に全員が正としてしまっているのと同じ状況です。

 

だからこそ、物事の善悪を語るとき、つまり正義を語るときには「主語」が何なのかを考えること、そして可能な限り「主語」をつけて語ることを忘れないようにしないとなと僕自身強く意識するきっかけになりました。

 

4)あなたの正義は何か

最後に、僕が現在メインで仕事をしている教育の分野に話を移すと、これもまた「主語」の存在がとても大事だなと感じています。

 

プログラムの参加者に対して教える立場として何かを教えること、伝えることは時には押し付けに、そしてもっと言ってしまえば洗脳に近いものになる可能性を常にはらんでいます。そんな中で何を頼りにそれを教えるべきだと判断するのかが大きな分かれ目になっていると感じています。

「学校の先生という公務員の立場ではない僕として」は、これは決して学習指導要領や教材のマニュアルだけであるべきではないと思っています。これらを頼りにするとき、「主語」は国や学校といったグループになっています。もちろんグループの主語が必ずしも悪いとは思っていません。今までの蓄積による効率化、国としての方針など必要な要素を含んでいることも事実です。ただその一方で、知らぬ間にそのグループの論理を押し付けてしまっている可能性は勘案しなければなりません。

 

そんな時に必要なこと、それは「自分」を「主語」にした教育だと思います。「教科書では」「世間では」こう言われているけど、「私は」「僕は」こう思うんだよねというコミュニケーションはグループの論理に押しつぶされていない「1人の人間である自分」を伝えることを通して、認知バイアスの存在に気付かせてくれる、そして参加者が自分はどう思っているのかという自分自身の認知バイアスを認識するきっかけになると思います。

 

これは何も学校や教育に限った話ではないと思います。知らず知らずのうちに僕たちは会社や所属する組織、一緒にいる人とのグループを「主語」にして、物事を語りがちです。そしてそう語るとき、往々にして「主語を明示せずに何となくの「私たち」で語っています。これは無意識のうちに、グループの共通認識という盾を掲げて、自分自身を守っている自己防衛なのではないかと感じています。

 

ただ、1人1人の可処分時間が増加し、会社に骨をうずめるのではなく、1人の人間としてどう生きるのかが大切になっていくこれからの時代、そんな自己防衛をしていても最後には誰も守ってくれない時代になっていくのではないかと思います。

 

だからこそ、グループの共通認識という盾ではなく、自分自身の正義という矛をもってこれからの時代を生きていくべきなのではないかと思います。

 

あなたの正義は何か

 

自分自身を主語としたときに何が語れるのか、自分自身がどんな認知バイアスを持っているのか僕自身も考え続けていきたいと思います。

 

今回も記事を読んでいただき、ありがとうございました。

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メカニクスとバイオロジー-複雑化する社会の道標は何か-

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こんにちは。杉谷遼です。

早いもので、今年も残すところわずかになりましたが、今年1年を締めくくる記事としてこの連続記事の最終回を書きたいと思います。

今回の記事は、前回まで2回にわたりお伝えしてきた複雑化が進んでいく社会がどうなっていくのか、そして僕たち自身がどうしていかなければならないのかという連続記事の最終回になります。まだ、前回までの記事を読まれていない方はぜひご覧ください。

ryohsugitani.hatenablog.com

ryohsugitani.hatenablog.com

 

今までの内容を簡単にお伝えすると、この世界において解決が非常に困難な問題が増えている状況において、「分断」という手法が多く取られていることを最初の記事で書かせてもらいました。そして「分断」では問題の見せかけの解決にしかなっていないばかりか、対象外の問題の解決をより困難にしているだけだという指摘をした上で、「統合」に向かうべきであるということも書きました。

2つ目の記事では、複雑化していく社会の中で、安易に「分断」を選ばないためにも必要な思考法のアップデートとして「決定論」的な思考から「確率論」的な思考に変革していくべきだということを書きました。

このような前置きをした上で、最終回の今回は「分断」ではなく「統合」に向かっていくために、これから僕たちが学ぶべきことについて書いていきたいと思います。

 

目次

1)「確率論」という波に乗って

2)日常を支配する「メカ二クス」

3)複雑性を前にした生物の強さ

4)「バイオロジー」の「統合」へのヒント

5)SDGsのその先へ

 

1)「確率論」という波に乗って

前回の内容と少し被る部分もありますが、今回の記事の位置づけを明確にしておきたいと思います。前回の記事で、複雑性に対応して、「分断」という安易な選択をしないようになっていくために「確率論」へのアップデートが必要ということを書きました。

これはつまり、「分断」というカードを切らないようにするための、新しい基盤の位置づけとして確率論へのアップデートが必要ということです。

多くの人が、現代の停滞感の正体が複雑性に強い確率論へのアップデートが出来ていないことだと認識してもらうことで、これから複雑性に強い人々が増えてくることを期待していますし、現状への問題意識から確実にそのような方向に社会が動いていく波が発生していくと確信しています。

 

今回は、そのような確率論へのアップデートという基盤を基に、どのような方向に社会が進んでいくべきか、そしてその参考となるものは何なのかについて書いていきたいと思います。

例えるならサーフィンにおいて、確率論へのアップデートという社会的な改革の波に乗って、どのような技を決めていくのかという、基盤の上で何を目指していくべきかということを書きたいと思います。また、その結果「統合」の価値が増していくということについても書いていきたいと思います。

 

2)日常を支配する「メカ二クス」

まず本題に入っていく前に、昨今の社会で目指すべきとされてきた「メカニクス」について書いていこうと思います。近代社会の大きな転換点と言われる産業革命ですが、この産業革命を機に、社会には1つの概念が存在感を増してきました。

 

その概念が「効率化」です。

効率的な生産、効率的な運営、効率的な販売、様々なプロセスの効率性が見直され、非効率的なものは悪だと言わんばかりに、特に産業の分野で効率化が推し進められてきました。

これは国際社会にも波及し、国力=効率性であり、武器も商品も効率的に作れる国が覇権を握るようになっていきました。そしてより効率的な環境を目指し、列強の世界進出が始まるというのが歴史の流れです。

この「効率性」を求める流れは現代においても変わっていません。GAFAを始めとしたメガ企業がプラットフォーマーとなり、ヒト、モノ、カネ、情報の巡りをより効率的にして巨万の富を築いています。最も効率を求められる主体が国ではなく、企業になったというだけなのです。

 

ここで教育に目を向けると、社会として育てたい人物は効率的に物事をすすめられる人物になります。その適性があるかをテストなどで測りながら、中学→高校→大学→社会人と階段を登っていくように設計されています。

これは実感値ですが、このような教育の結果、学歴ヒエラルキーで上位にいる人ほど、プロセスを効率化することに長けている人が多い印象を受けます。同じ間違いを繰り返さない、細かいミスに気が付く、同じプロセスを以前より早く回すことが出来るなど、受験という関門を通ることによって、効率化に長けている人をスクリーニングしているのです。

 

この時、人材育成や社会の重要な部分で参考になっているものは「メカニクス」です。いかに社会を効率化して動かしていくか、1つ1つの歯車まで効率的にしていくことで、この社会は回っています。

つまり、教育、ビジネス、社会システムといったあらゆるものが「メカニクス」が支配していると言っても良いかもしれません。僕たちは知らず自らずのうちに歯車として育てられているのです。

 

3)複雑性を前にした生物の強さ

しかし、前回の記事でも書かせてもらったように、複雑性が増していく中で、「決定論」的な思考は後れを取ります。プロセス自体が煩雑化し、いくらそれを効率化しようとしてもいたちごっこになってしまいます。さらに言えば、限界逓減*によって効率化はどんどんと限度に近付いていきます。

*限界逓減:初めは大きな価値を生むが、やり続けて限度に近付くにつれて生める価値が減少していき、最終的にはほとんど価値を生めなくなってしまうという主に経済学で使う用語。最初の一口と満腹に近いときの一口では美味しさが違うなど、多くのことに当てはまる法則。

 

ということは、この「メカニクス」社会によってつくられた、僕たちの「決定論」的なOSは、これから先、どんどんとこの複雑性の変化に対応できなくなっていくということです。

 

では、僕たちは、これからの社会を築いていくために何を参考にしていくべきなのでしょうか。

 

僕は「バイオロジー」が今後の社会の大きな参考になると感じています。

「バイオロジー」、つまり生物、生命の複雑性への適応力は非常に優れています。この地球が誕生してから、様々な変化が起きてきていますが、その都度変化に適応しながら、その系譜を脈々と引き継いできています。深刻な環境問題により、多くの生物が絶滅してしまうかもしれませんが、それでも「生命」は世代を超えて何らかの進化・適応をし、今後も生き抜いていくはずです。

そのような生命の力強さ、そして適応能力の高さは既に広く認められており、実は工学の分野でも生命知に関しての研究などが以前から行われています。例えばGA(Genetic Algorithm:遺伝的アルゴリズム)という手法は、生命の遺伝の仕組みを使って、環境の中で最適なものを発見するなどに利用されたりしています。

 

また他にも、ベストセラーにもなった組織開発の本「ティール組織」の中でも、現代における組織の進化の行き着く先が組織が1つの生命体となっているような組織(=ティール組織)と書かれているように、「バイオロジー」に着目すること自体は決して新しいものではなく、徐々にその注目度を増していることなのです。これは、上で述べた様な「メカニクス」社会の行き詰まりが徐々に認識されているという証左であるとも言えます。

 

4)「バイオロジー」の「統合」へのヒント

そしてこの「バイオロジー」社会へ向かっていくためには、「分断」では到底たどり着けません。

生命はその役割を持ちながらも、お互いに依存・影響・補完をし合い、生態系システム全体で成立しています。

これは最も僕たちが認識できる人体という1つの生命個体を取っても同じことです。臓器などの器官はそれぞれ別の役割を持ちながらも、生命個体を生かすために互いに影響し合っています。どれか1つの器官がなくなっても、人体は機能不全を起こし、最悪死に至ります。これは生命個体を拡張した生態系システムでも同じことです。

つまり、「分断」を行っている限り、僕たちは「メカニクス」社会から抜け出せないのです。「統合」をして初めて「バイオロジー」社会へと移行する準備が整います。

 

また、生態系システムはそこに属する生命個体の多様性がそのまま、そのシステムそのものの強さになります。

以前、多様性に関しての記事でも書いたのですが、多様性がなぜ大事なのかと言われれば、システム全体のレジリエンス(外乱に対して粘り強く、復帰する力のこと)が高まるからだと考えています。例えばコロナのような新型のウィルスが発生した場合に、同じ種しかおらず、その種がそのウィルスに遺伝的に弱ければ、その社会は壊滅します。しかし、多様な種がいれば、その中には確率的にそのウィルスに抗体を持っている、又は適応できる種がいる可能性が高まり、その社会の生存可能性は高まります。そのため、多様であることはそのままシステム全体のレジリエンスに関わるのです。

つまり生態系システム的に考えると、「分断」した生態系は非常に脆弱で、「統合」によって生態系を拡大していくことが社会のレジリエンスそのものになっていくということです。だからこそ、僕たちがこの複雑性がどんどんと高まり、どんな変化が起きてもおかしくない今の社会ですべきことは「分断」ではなく「統合」なのです。

 

「バイオロジー」を参考に、社会を1つの生態系システムだと捉え、現状の「分断」の限界に気付き、「統合」の可能性に光を当てるべきです。

そして「統合」を通して「バイオロジー」社会を目指していくことこそが、この複雑化する社会の道標だと感じています。

 

5)SDGsのその先へ

昨今、国連の掲げる2030年までの「SDGs」が多くの行政、企業、教育現場で叫ばれていますが、僕自身、このSDGsには少し懐疑的な立場をとっています。というのも、多くのアクターが上滑りだけの「持続可能性」を掲げているのはもちろんですが、現在の社会の発展の方向性とSustainabilityを別の軸として捉えているような感覚を受けるからです。

開発の名のもとに新興国を中心に世界全体で進む、資本主義に基づいた「メカニクス」社会の発展に対して、Sustainabilityというプロセスの効率化にストップをかけるような概念を打ち出していることが、現状の上滑りだけの持続可能性の蔓延を招いているのではないかということです。簡単に言ってしまえば本音と建前がちぐはぐになっていないかということです。

 

つまりSDGsなどの世界全体での目標は、社会全体の方向性、ひいては社会発展の方向性と抱き合わせで打ち出されるべきだと感じます。

 

僕は、SDGsの効果は多くの人に「メカニクス」社会の罪悪感を植え付け、さざ波をつくったことにあると思っています。本音と建前がちぐはぐになっている違和感、そして現代社会における停滞感、変化についていけない中で、どこか改革をしなければいけない感覚、これらが合わさって社会は徐々にですが良い方向に向かっていると感じます。

その波が「確率論」的な思考のアップデートや「統合」の可能性とつながった時、大きな波が来ると思います。それが2030年になるかはわかりませんが、そのときに1つの道標が「バイオロジー」社会であったら嬉しいです。

 

そして、社会の発展の方向性が経済的な発展を基礎としている開発ではなく、複雑性の高まる社会への適応になってほしいという思いを込めて、もし僕が次のゴールを名付けるのであれば「Biological Adaptation Goals:BAGs:生物的な適応目標」と名付ける気がします。

社会全体を生態系システムとして、複雑性に対してレジリエントな社会を目指していくことが、これからの社会の1つの方向性になるのではないかと、個人的には本気で考えています。様々な「バイオロジー」の知見が、今後の社会発展の形に活かされることを願っています。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。最後はほぼ妄想に近いような内容でしたが、この3回の記事を通して、2020年という節目の年に自分自身が考え、少し見えた今後の道標が伝わると良いなと思っています。

 

来年も記事更新していきますので、ぜひご覧いただければと思います。

アメリカ-イラン関係、オーストラリア、アマゾンの森林大火災、モーリシャスでの重油事故、そして世界を一変させた新型コロナなど様々なことがあった今年ですが、年初に書いたように、いかに明日を描いていくことが大事かを改めて認識させられた1年でした。

来年が今年よりも少しでも良い年になることを願っています。

皆さま良いお年をお過ごしください。

 

 

今回も最後まで記事をご覧いただきありがとうございました。

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決定論と確率論-複雑性に弱い僕らのアップデート-

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こんにちは。杉谷遼です。

また記事の更新に時間がかかってしまいましたが、2020年の学びの自分自身の学びの集大成として、この連続記事は書ききりたいと思っていますので、温かく見守っていただければと思います。

さて、前回はこの世界の問題の「複雑性」に着目をして、この複雑性を形作っている変数と条件、そして対処方法としての分断と統合について書きました。
世界的な潮流は「分断」へと進んでいますが、何とかして「統合」へと歩みを進めなければならないというのが前回お伝えしたことです。

まだご覧になっていない方は以下よりご覧ください。

ryohsugitani.hatenablog.com

 

今回は、この統合に進んでいくために、複雑性に対していかに対応できるようになるかという部分に話を進めていけたらと思います。

 

目次

1)分断という悪魔のささやき

2)複雑性に強くなるためには

3)決定論と確率論

4)確率論のOSをインストールしよう

 

 

1)分断という悪魔のささやき

まず初めに前回とも少し被る部分がありますが、なぜ今この世界は分断へと進んでいるのかについて少し違った角度から説明をしていきたいと思います。

前回書かせていただいたのは課題を解く時点での要因です。複雑な課題を、変数と条件の関係から、簡単に解くことの出来る部分と困難な部分に「分断」をすることで課題が解決できたように見せることが出来るというのが1つの理由でした。

 

今回、注目したいのは、逆になぜ「分断」をしてまでも課題を解く必要があるのか?という部分です。これには大きな社会情勢の流れが関係していると考えています。

現代はヒト・モノ・カネ・情報の移動のスピードは圧倒的なスピードで向上し、本当に多くの数の「変数」を同時に扱わなければならない状況になっています。

そのような環境下で、どこか今までのようにはいかない「停滞感」が生まれているのが今の全世界的な情勢だと思います。経済成長が止まり、徐々に新興国に抜かれていく日本はもちろんのこと、経済成長が続いているアメリカですら、その経済成長は一部のメガ企業の成長であり、国民全体の中には停滞感があるはずです。

 

僕はこの停滞感こそが実は分断という悪魔のささやきだと考えています。

かつて世界を席巻した日本企業は市場の変化に対応しきれず、衰退していっています。そのような上手くいかなさ、もどかしさによって生まれる、何とかしなければならないという気持ちこそが安易な課題解決へと走る大きな理由です。

そうやって安易な課題解決に走った先には、必ず「分断」という手法が待っています。複雑で難しい、そして課題が解決されていると実感できるまでに時間がかかる統合は選ばれるはずがないのです。

 

つまり、現在の大きな社会情勢の流れ=「分断」への流れは複雑性の中で生まれる停滞感が1つの原因であると考えています。この停滞感に対処しない限り、僕たちは永遠に分断という悪魔のささやきから逃れられないのです。

 

2)複雑性に強くなるためには

だからこそ、まず分断へと進むこの流れを止めるためには停滞感を生まないように複雑性に強くなることが必須であるということです。

複雑性に強くなるためにもまずは、現代の僕たちの複雑性への弱さはどこから来ているのか考えていきましょう。

 

複雑性が増していく中で、今までと大きく異なっていく部分は「変化」と「スピード」だと考えています。様々な要素が絡み合うシステムでは、常に変化が発生し、刻一刻とその形は変わっていきます。複雑性の高くない世界では、変化も少なく、対応するスピードも求められませんが、複雑性が高くなるとその変化は常に発生し、対応にもスピードが求められてきます。

このような「変化」と「スピード」に僕たちはついていけていないのではないでしょうか?社員の考えたアイディアを課長が承認をして、部長が承認をして、役員が承認をして、、、と意思決定をしていく企業の意思決定プロセスしかり、時間をかけても正解を導くのが良いことだとされてきた日本教育の中で育ってきた僕たちは、この「変化」と「スピード」にとても弱くなっていると感じています。

 

だからこそ、複雑性が増していく世界の中で、上手くいかないという停滞感を感じ、結果分断の道へと歩みを進めてしまっているように感じます。

この「変化」と「スピード」に強くなる、つまりは複雑性に強くなるために、僕たちはどのようなアップデートをしていかなければならないのでしょうか。

 

3)決定論と確率論

アップデートしていくべき内容を説明する前に、2つの概念を紹介したいと思います。この記事のタイトルにもなっていますが、決定論」と「確率論」です。

※個人的な見解が含まれている定義になっています。学術論文などでは異なる定義でこれらの言葉を用いることがありますので、注意してください。

 

決定論」とは簡潔に言ってしまえば、いかなる現象も因果の関係によって紐づいているという論で、Aが起きればBが起き、結果的にCが起きるというような直線的なプロセスに基づいている考え方です。

例えば、理論的な裏付けの基、このようなデザインをすれば商品が売れるはずだという意思決定をして商品を販売するというのは決定論的な考え方です。デザインという要因によって売れるという結果が直線的に結びついているからです。

このような決定論的な考え方では、プロセスである因果関係が非常に重要視されます。なぜ売れるようになるのか、なぜこのデザインがウケるのかなど、様々な因果関係を基に意思決定の確からしさを決めるためです。

 

「確率論」とは、簡単に言ってしまえば、いかなる現象も確率的に発生しているもので、因果関係に強く縛られていないという論です。結果的にAが起きたということが重要で、その間にどのような因果があったかなどはひとまず置いておくという考え方です。

例えば、先ほどの商品デザインの話でいくと、理論的な裏付けはちゃんとされてはいないが、面白そうなデザインの商品を3つ開発して、それをまずは売ってみて反応を見てから売れた商品を追加生産しようというような意思決定が確率論的な考え方です。なぜ売れるのかという因果関係は置いておいて、売れたという結果に従っているからです。

このように確率論的な考え方では、プロセスではなくアウトプットを重要視します。よく理由はわからないけど、売れたという結果を第一に考えて意思決定の確からしさを決めているからです。

 

4)確率論のOSをインストールしよう

さて、ここまで「決定論」と「確率論」の紹介をしてきましたが、どちらが絶対的に正義というものではありません。しかし、多くの場合、日本の教育などを見てみても「決定論」の考え方が非常に強いというのが現状だと考えています。

 

何事もそこに至るまでのプロセスを大事にし、正しいプロセスを踏めば正しい答えが出るということを繰り返し教え込まれます。これはこれで重要なのですが、決定論的な考え方の大きな弱点は、時間がかかるということです。

因果関係を裏付ける理論は一朝一夕では出来上がりませんし、意思決定までの全てのプロセスに因果関係をつけていくので、かなり時間がかかります。つまり考え始めてから答えを出すまでに大変な時間がかかるということです。

 

これが実は先ほど説明した、複雑性が増していく中での停滞感に結びついています。決定論的な考え方でプロセスを丁寧に作り上げ、意思決定をしても、プロセスを作り始めてから意思決定をするまでに、状況がどんどんと変化してしまうため、正しいプロセスをたどった意思決定なのに上手くいかないということが増えてきているのが停滞感の正体だったのです。

 

そのため、具体的に僕たちがアップデートしなければならないのは「確率論」というOS(WindowsなどのPCの基幹のこと)をインストールすることです。

確率論的な考え方はつまり、早くアウトプットを出して答え合わせをするということです。例えるなら60分の数学の試験でじっくり考えて最後に答えを出すというのが決定論だとすると、確率論では先生にひたすらそれらしい答えを60分間答え続け、○×を直ぐに判定というのを繰り返し、最終的に答えを見つけるというようなイメージです。

学校教育では絶対にやってはいけない行為のような気がしますが、そう感じることが既に僕たちのOSが決定論的な考え方になっている証拠です。

 

このように何度も答え合わせをして答えに近付く確率論は変化が激しく、素早い対応が求められる環境下ではとても威力を発揮します。

状況が変化し、昨日まで正解だったAがBになったとしても、答え合わせを繰り返している中で、Bになったということが良くわかります。決定論ではAという答えを出す間に正解がCになっているかもしれませんが、確率論的な考え方はA→B→Cと変遷していくのに対応していけます。

このように複雑性が増している環境下では、決定論から確率論的な考え方にシフトしていくことで、複雑性に強くなっていけるのです。

 

しかし、決定論的な考え方が染みついた僕たちが、急に確率論的な考え方をするのは難しいと思います。そこで確率論を少しずつでもインストールできる3つの考え方を紹介して、今回の記事を終えようと思います。

・失敗の数が価値
→確率論的な考え方では、正解にたどり着くために多くの犠牲が伴います。つまり失敗しまくるということです。決定論的な考え方が染みついていると、失敗は悪のように感じられますが、確率論的な考え方では、失敗こそ価値であり、失敗の数が成功に近付くためのカギです。

 

・アウトプットまでのスピードが大事
→プロセスよりもアウトプットが大事なので、このアウトプットがいかに早く出せるかが重要です。意志決定、商品、政策など様々なアウトプットがありますが、プロセスにこだわるのではなく、とりあえずアウトプットとして出すという姿勢が重要です。

 

・過去の栄光を壊す勇気
→確率論的な考え方は時に残酷です。環境が変化すれば正解が変わるため、今まで上手くいっていたものも環境が変われば捨てる勇気が必要です。だからこそ、過去の栄光ではなく、今目の前の失敗に価値を置いてトライを繰り返し続けるというのが重要になってきます。

 

以上3点になりますが、いかがだったでしょうか。社会人の方であれば、上司に言われたことがある内容かもしれませんが、社会全体を見渡しても出来ている人が少ないからこそ、この社会全体の停滞感が生まれているので、より多くの人がこの確率論のOSをインストールしていってもらえるきっかけになったら嬉しいです。

 

今回はそもそも分断という安易な解決策に飛びつく理由として、今の社会情勢全体の停滞感を挙げ、その原因が複雑な環境下で激しくなる変化と対応のスピードに、決定論的な考え方の僕たちがついていけていないということを指摘しました。その上で、今後統合に向けて安易な分断に向かわないためにも、確率論のOSをインストールして複雑性に強くなっていくことが重要ということを述べました。

 

次回は連続記事の最終回として、確率論のOSをインストールした上で、統合に向かう社会全体として学びを深めていかなければならないことについて書いていきます。

 

今回も記事を読んでいただき、ありがとうございました。

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分断と統合-複雑性のモンスターを前にして-

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お久しぶりです。杉谷遼です。

最後の記事更新が6月と、今までで最長の2か月半が経過してしまいました。

今回、なぜここまで間があいてしまったのかというと、仕事が忙しかったというのもありますが、この数か月の自分の中でのインプットがそれぞれ程よい大きさに切れてくれず、段々と大きな塊として存在感を増してきたというのが大きな理由です。

本来大きなまとまりのある記事を書くのが好きではなく、なるべくなるべく小出しにしていきたいと思っていたのですが、今回はそうはいきませんでした。

そんな大きな塊の成長が段々と落ち着き始め、僕の中でこの塊が何者なのか、説明がつくようになったため、ようやく記事を書きだそうと思った次第です。

今回は大きな塊を3つの章に砕いて少しずつ書いていきたいと思いますので、いつも以上に話が見えづらく、内容も抽象的な部分が多いため、わけのわからない話に思われるかもしれませんが、今まで以上に自分の中では最近の世の中や社会を見通す大切な枠の1つだと思うので記事を書かせていただきます。

全3回ということでなるべく来月末までには書ききりたいと思っていますが、温かく見守っていただければと思います。

 

目次

1)問いを複雑にするのは何か

2)膨れ上がった複雑性のモンスター

3)分断という対処

4)統合を諦めない

 

 

1)問いを複雑にするのは何か

今回、僕がこの記事を書き始めようと思ったきっかけは、小学生のような純粋な疑問でした。なぜ世界には解決できない多くの問題があるのかということです。

これは僕が普段から興味を持っている新興国の問題もそうですし、政治や外交上の問題、環境問題など、様々な地球上、人類の課題は長年多くの人がその人生をかけて取り組み、死力を尽くして頑張ってもほんの1㎜ほどしか解決に向かわないものです。

 

このような活動をしているとときどき、
「どんなに頑張っても自分が生きているうちに解決できない可能性が高い問題に取り組んでいて、無力感を感じないのか」
と問われることがあります。

 

確かに客観的に考えて、現在自分が課題だと感じている諸問題は、僕が一生をかけても解決できない可能性が高いですし、自分以後の何世代にわたってもピクリともしない問題のようにも感じます。

ただ、僕にとってはそれが純粋に疑問に感じられました。解決できない問題の存在、そのものが疑問に感じられたのです。

無宗教ではありますがキリスト教の聖書に「*神は乗り越えられる試練しか与えない」とあるのに、乗り越えられない試練があるのかと存在そのものに純粋に疑問が湧いたのです。
*コリント人への手紙第10章13節の意訳

 

こんな無邪気な疑問から、この世の中をもう一度見直してみようというのが、今回の3回に及ぶ記事の出発点です。決して解決が出来ると楽観的になるためのものでも、解決が出来ないと悲観的になることも目的とはしていません。

単純にすごくシンプルな疑問から、この世界がなぜ難しいのか、そして特にVUCAの時代と呼ばれる現代がなぜ問題にあふれているのか考えていくきっかけになれたら嬉しいです。

 

さて、このように解決できない問題を前にして絶望するのは疲れるので、簡単に解ける問題から考えることにしましょう。

誰もが1度は解いたことがあるシンプルな問題として方程式があると思います。

2x+5=3のようなごく単純な方程式です。これであればx=-1とすぐに答えが出ます。これはなぜかというとxという1つの「変数」に対して、2x+5=3という「条件」が1つあるからです。

数学が得意な方であればご存知かと思いますが、一般的にどんなに「変数」が多くても「条件」が同じ数あればそれを解くことが出来ます。(細かい条件については本題ではないので興味があれば調べてください。)

逆に解けなくなる時は「変数」の数が「条件」の数を上回った場合です。数学が嫌いで嫌いで仕方ない方には申し訳ないのですが、1つ例を示します。

x、y、zという3つの「変数」に対して、

3x+5y+z=12、x+y+z=2という2つの「条件」しかなかったとしましょう。そうすると何が起きるかというと、

x=-2z-1、y=z+3という2つの式までしか出すことが出来ません。x=〇、y=〇、z=〇という答えは出ないのです。

こう考えると、解けない問題は「変数」が「条件」に比べて多すぎるということがわかります。実際の社会問題も国家同士の利権や地域での利権、そこに自然環境や住民といった様々な「変数」が絡まりあって問題が発生しています。人間1人ですら、様々な利害関係の中で同じ動きをしない「変数」なので、このような解決困難と言われる問題が抱えている「変数」の数は膨大だと考えられます。

 

ここまで数学を使ったりと話が少しそれたりもしましたが、ここでお伝えしたかったのは解決できない問題は関わっている「変数」が多すぎるということ、そしてそれらを結びつける「条件」が少ないことが問題を難しくしている原因であるということです。

 

2)膨れ上がった複雑性のモンスター

現代の問題はこの過剰な変数が生み出した複雑性のモンスターとも言えます。

もともとこの世界や社会は複雑なものです。多くの生物がお互いの利益のために互いに助け合ったり、社会構造を構築して秩序を保ってきました。

しかし、僕たち人間はこの世界に広がる均等な複雑性を、自分たちの簡便性のために見えないところに押し付けて、追いやってきました。

均等な蜘蛛の巣を、棒でどこか一か所にまとめるように、棒が通った後は糸はなくなりシンプルになりますが、棒が行き着く先には過剰な糸が複雑な模様を作っています。

 

例えば途上国におけるアパレル企業の過重労働、悪質な労働環境の問題を挙げましょう。いかに効率的にものを作り、それをいかに安く大量に売るかという目的意識のもと、本来であれば関わることのなかった途上国の労働市場に先進国の利益という「変数」が持ち込まれました。その結果、途上国内での労働生態系がバランスを崩しただけでなく、企業側につく現地のマネージャーと労働力として酷使される人々という新たな「変数」を生んだりしながら、ブクブクとその複雑性を膨らませてきました。

その一方、先進国側に住む僕たちは良い衣服が安く手に入ることに喜び、その動きを加速させてきてしまいました。今でこそ大きく取り上げられ、意識をして消費をすることが注目されてきてはいますが、一昔前までは僕たちから見えないところに問題は追いやられ、見えないところで膨れ上がってきました。

 

そして今になってこの膨れ上がったモンスターが注目されてきています。すでにでっぷりと多くの変数を抱え込んでいるこのモンスターに対して、僕たちは何が出来るのでしょうか。一か所に寄せられて絡み合った蜘蛛の糸をほどくことが出来るのでしょうか。

 

3)分断という対処

このような複雑性のモンスターを前にして、多くの国家、人々が諦め始めたと僕は感じています。その1つの例が各国での右派政権の誕生です。

アメリカのトランプに始まり、ボロソナロ、ドゥテルテ、安倍-菅政権などなど多くの右派政権が世界中で誕生しています。なぜこれが諦めの始まりかというと、彼らの複雑性のモンスターへの対処が「分断」だからです。

 

分断は確かに一見すると複雑性を解消しているように見えるかもしれません。一番わかりやすいのはトランプです。彼はUnited States of Americaを見事にDivided States of Americaに変え、問題を解決したかのように見せました。白人と有色人種、高齢層と若年層、都市部と地方部、エリートと貧困層などなど様々な切り口で「分断」は行われます。日本も高齢層に向けて多額の社会福祉費用を出すことで政権を維持し、そのツケを若年層へと先送りし続けています。そして「分断」を行う人々は、まるで問題が解決されているかのようにアピールをし、それによって利益を得た人は素晴らしい成果だと評価します。

複雑性の高い問題に対してなぜ「分断」が有効なのか、それは複雑な問題を解ける部分と解けない部分に分断し、解ける部分にリソースを全て注ぎ込むというやり方を取るからです。このやり方であれば「条件」の数が足りている解ける部分の「変数」は解が出ます。つまり扱う「変数」を扱いやすいものに絞って減らすということです。

 

しかし、解けない部分に目を向けると悲惨です。もともと複雑性が高く、解けないと判断された部分が、分断されることによって複雑性の純度が増してしまうからです。つまり扱いにくい「変数」ばかりが残るということです。今までは扱いやすい「変数」にくっついていることで何とか維持していたその全体像は、この分断によって完全に機能不全に陥ってしまいます。これが顕在化したのがBlack Lives Matterに代表される人種差別の問題だとも感じます。

 

4)統合を諦めない

このように「分断」はこれまで複雑性のモンスターを育て、解けない問題を育んできた方法と何ら変わりません。次々と解けない問題をより解けない問題に変えていく極めて危険な対処方法です。しかし、世界の民主主義(と呼ぶことにします)はこの「分断」を求める流れになってきています。

 

この流れを止めるためにも「統合」を進めなければならないと思います。「統合」はいわゆる国際協力や国際協調といった大きな枠組みから、世代間の協力、官民の協力など様々な「変数」が手を取り合って「条件」を増やす努力のことです。しかし想像していただけるかと思いますが、国際協調をはじめ「変数」同士の関係性である「条件」を増やすことは難しいため、困難な道になるとわかり切っている「統合」に舵を切るためには、僕たちが「統合」された複雑系への正しい理解を進めていく必要があります。

 

「分断」の流れは強力です。わかりやすさという武器は多くの人を動かします。逆に「統合」は人心を得にくいものです。すぐ結果も出なければ、損失をなくすだけで利益につながらないこともあります。そして何よりも複雑で難解です。

今回、僕がこの3回にまたがる記事を書こうと思った目的はここにあります。この複雑で難解な「統合」に向かっていくために、僕たちは今までのわかりやすさ×目に見える利益という成果の定義の変更を求められています。

解けないと思われる問題に対して「条件」を増やして粘り強く対処していくために、「統合」の難解さを解きほぐし、理解し、対処方法として扱っていく必要があります。次回以後の記事の中で、これまでのインプットの中から、「統合」を理解し扱っていくためのヒントになるコンセプト、考え方について書いていけたらと考えています。

 

今回はこの世界でなかなか解くことの出来ない問題の複雑性の原因を「変数」と「条件」という数学チックな定義で説明をしました。そしてその複雑性の解消の手段として「分断」と「統合」という全く異なる2つを紹介し、今世界的な潮流となっている「分断」の危険性について説明しました。その上で、次回以後は「統合」に舵を切るために、その理解のヒントになるコンセプトを紹介していこうと思います。

 

この記事をヒントに少しでも「分断」を止め、「統合」が進むきっかけになったら嬉しいです。

 

今回も記事を読んでいただき、ありがとうございました。

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寄付と政治参加のアップデート

 

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こんにちは。杉谷遼です。

 丁度先週、誕生日を迎え27歳となりました。27歳初の記事ということで、自分の中で温めていた「寄付」というものの価値について書いていきたいと思います。

 

 僕にとって自分が出来ないこと、素晴らしいことをしている人々や団体へ寄付するということは当たり前のことです。しかし、今の日本の多くの人はそうではありません。

 かといって僕自身が特別心優しい善意であふれた人間であるわけでもありません。むしろ僕よりもよっぽど心優しく善意であふれた人々が友達にも知人にもたくさんいます。

 ではなぜ、その人たちは寄付をしないのでしょう?そこに、僕自身が考えている「寄付」の考え方と世間一般で考えられている「寄付」の考え方に大きな溝があると感じました。その溝を埋めたいという思いがこの記事を書く出発点です。

 

 この記事が日本の寄付市場全体の少なさという問題への貢献に、そして資金難で悩む素晴らしい活動をされているNPOの助けに、さらには将来の見えない若年層の政治への諦めに対して一石を投じることに繋がれば嬉しいです。

 

目次

1)寄付市場の基盤が弱い日本社会

2)ソーシャルセクターの社会的役割

3)政治的に不平等な今の日本

4)寄付は社会変革のための一票になる

 

1)寄付市場の基盤が弱い日本社会

 まず、日本全体の寄付市場の話から始めます。日本全体の個人寄付額は2016年のデータで少し古いですが、7756億円*です。思ったより多いという方もいるかと思いますが、アメリカの同年の個人寄付額は30兆6664億円*です。経済規模の差を考慮して名目GDPに占める割合としても、日本が0.14%*であるのに対して、アメリカは1.44%*と10倍の差があります。

(*ここまでのデータはNPO法人日本ファンドレイズ協会より引用)

 近年クラウドファンディングの拡大や、この新型コロナの影響により助け合いの精神から寄付の額は現在もっと増えていると予想できますが、アメリカとの10倍の差を埋めるほどの前進ではないと感じています。

 また、ここが今日の一番のポイントになるのですが、昨今増加している寄付には一過性の寄付が多いという印象を受けます。クラウドファンディングにしろ、今回の新型コロナでの緊急支援にしろ、通年での支援ではなく、必要になった場所にその分だけ寄付をするという一時的なものにとどまってしまっている寄付が多いと感じます。

 ことわっておくと、決してこのような緊急支援や一時的な寄付が悪いということではありません。今まで寄付をしてこなかった人が寄付をするようになること、本当に必要な場所に寄付を届けることは確実に必要なことです。

 ただ、そのような緊急時、一時的な寄付が多いということは、その分だけ今の日本の寄付市場は基盤が弱いということだと思います。これは「寄付」が誰かを助けるためのもの、目に見える誰かを応援するためのものという「善意の協力」の範囲を超えていないからだと思います。繰り返しになりますが、「善意の協力」はもちろん大切です。ただ、その協力には継続性がありません。人が共感をして善意を行動に移すということを継続していくことには限界があるからです。

 

2)ソーシャルセクターの社会的役割

 では、寄付というものをどのようにとらえることで、この緊急性のある寄付、一過性の寄付から、継続的な寄付へと変わっていき、日本の寄付市場の基盤を強めることが出来るのでしょうか。

 ここで、重要になってくるのがNPOに代表されるようなソーシャルセクターの役割です。そのため、本来あるべきソーシャルセクターの役割から考えていこうと思います。

 ソーシャルセクターは主に、経済活動や政府の民主主義的な動きの中で取り残されてしまった、社会問題と言われる問題に苦しむ人々の支えになることを目的として存在していることが多いです。例えば、地域の片親家庭の教育支援や、新興国における貧困層の支援、障碍を抱えた方のライフサポートなど、その活動は多岐にわたります。このような問題に対して、資金を集め(ファンドレイジング)、しっかりとその問題で困っている人々のもとに届けて支援することがソーシャルセクターの大きな役割の1つです。

 しかし、多くの人々、場合によってはソーシャルセクターの中にいる人々まで、このような支援するということが役割の全てだと思われているように感じます。あくまで、この支援するということは役割の1つでしかなく、本来的に言えばこのような問題が発生している根源的な原因へとアクセスをして、解決していくということを目指すことがソーシャルセクターの役割です。そうでなければ、支援を受けている人々を一生その団体は支援しなければなりませんし、もしその団体が資金集めに失敗して破綻した場合に、その団体が今までしてきた支援というものは何も残らないものになってしまい、多くの支援を必要としている人々を投げ出すということになってしまいます。だからこそ、ソーシャルセクターの役割は支援することだけではなく、その問題の解決を目指すことであるはずです。

 その問題解決を目指す活動として、講演会や政府への意見といったアドボカシー活動(市民社会への理解促進や政府・地方行政・国際機関など行政に対する働きかけのこと)をほとんどの団体が行っています。

 このように、ソーシャルセクターが目指していることは基本的に問題への一時的な支援ではなく、問題の根本的な解決です。だからこそ、ソーシャルセクターへの寄付はこのような一時的な「善意への協力」ではなく、継続的な「変革のための社会参加」として捉えるべきだと考えます。入り口やとっつきやすいものは「善意の協力」でも良いと思います。しかし、その先の継続的な「変革のための社会参加」として寄付が市民権を得たとき、日本の寄付市場の基盤はより力強いものになるのではないでしょうか。

 

3)政治的に不平等な今の日本

 話は少し寄付から離れて、政治の話になります。現在、新型コロナに対する政府の対応に批判が出たり、都知事選が始まりつつあったりと、少し政治を身近に感じる、関心を持つ時期なのではないでしょうか。

 既にご存知かもしれませんが、これから「今の政治では何も変わらない」ということをお話しする前に、以下の動画をぜひご覧ください。

 https://www.youtube.com/watch?v=t0e9guhV35o

 

 簡潔に言えば、日本はこの最たる例だと言えます。選挙に行く高齢者、そして選挙に行かない若年層。だからこそ知らぬ間に社会は高齢者のためのものになっていき、そのツケを払わされるのが若者やこれから生まれてくる世代という構造です。

 そして少し考えてほしいことは、民主主義である限り今の日本で僕たちの意見を政治の仕組みを用いて反映させていくことはかなり難しいということです。統計局の最新データ(令和2年5月速報値)によると日本の高齢者人口(65歳以上)は3609万人(全体の28.6%)で、それに対して若年層(15歳~34歳まで)は2509万人(全体の19.9%)です。(35~39歳を入れても3254万人で25.8%)

 この数字を見ればわかりますが、投票という行為では僕たちのような若年層の意見と高齢者層の意見が食い違ったとき、40歳未満の人々が一蓮托生になって臨んでも、ぎりぎり勝てないというのが現状です。だからこそ、高齢者層優遇、若年層軽視の傾向はこれからの日本で大きく変わることはありません。1人1票の平等が与えられていても、数的な問題ですでに不平等になっているのです。

 だからと言って、投票に行く意味がないと言いたいのではありません。参政権を行使することは、自分の意見を政治に反映させる上でとても重要なことです。数の壁はあるものの、自分はこう考えているという小さな1人の意見がある政治家1人の当落に関わり、それによって政治がわずかでも変わるということは十分にあり得ます。ただ、今回言いたいのはこのような投票という政治参加による社会変革は、特に僕たちのような若年層には限界があるということです。1人1票で変えられる範囲に限界がある。当たり前のことですが、この状況は僕たちのような若年層が、今の閉塞的な日本の政治に対して諦めてしまう、無関心になってしまうことにもある一定の理解が出来る事実だと思います。

 

4)寄付は社会変革のための一票になる

 このような硬直してしまって変えられそうにない政治や今の社会に対して、僕たちは投票というささやかな抵抗をしながら、半ば諦めてそれに従って生きていくことしかできないのでしょうか。

 僕は違うと思います。そしてそこに風穴を開けることが出来るものが「寄付」なんだと思います。

 経済活動の中では、ごく当然のように有望な企業や面白い企業に投資をするということがあると思います。確かにそれに対して配当などのリターンがあるから投資するということもあると思いますが、そういう企業がもっと大きくなって面白いものが出来たら良いなという思いが少なからずあると思います。

 前に述べた様に、企業が経済活動によって何かを成し遂げるものだとすれば、ソーシャルセクターは経済活動や政治活動の中で生まれてしまった問題を解決するためのものです。だからこそ「寄付」はこんな社会になってほしい、こんな世界になってほしいという社会変革への投資なのです。

 もちろん企業のように配当やリターンを用意できるわけではありません。しかし、その社会変革を起こすことがどれだけ意義のあることなのか、間接的に政治活動に、経済活動に訴えることの出来る、どこか1つを選ぶ必要もなく、1票だけでもないこの社会への参加権だと思います。

 誰しもが政治活動、経済活動の中で様々な問題を抱えているはずです。学校教育が不十分である、企業によるパワハラの被害を受けた、毎月高額の税金を払っているのに自分には何も返ってこないなど、その問題は多種多様だと思います。でもその1つ1つに対しておかしいと声を上げ、活動をしているソーシャルセクターの団体があるはずです。そのような団体に多くの寄付が集まれば、問題が改善することも、そして解決することもあります。

 そのような「変革のための社会参加」として寄付を考えてみませんか?そうすれば寄付は善意溢れる人が優しさでしているものではなくなるはずです。「寄付」はこの国の政治を経済を、そして社会全体をより良くするための何票でも入れられる新しいカタチの参政権なんです。

 皆さんの優しさと善意ではこの社会は変わらないかもしれません。しかし、そこに変えたいという思いと、一緒に変えていきたいという覚悟が合わさったとき、社会は本当に変わるのではないかと本気で思っています。

 

 

今回も記事を読んでいただきありがとうございました。

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全てが真っ暗になった2か月間(2)

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こんにちは。杉谷遼です。

今回は前回に引き続き、僕が適応障害と診断されてからのことについて書いていこうと思います。前回はどのような状態になってしまうのか、どんな苦しみを感じるのかについて体験したことをもとに書きました。

もしまだ読まれていない場合には以下よりぜひご覧ください。

https://ryohsugitani.hatenablog.com/entry/2020/05/31/201902

 

今回は、前回の体験をもとに、僕がそれからどんなことに気を付けて人と接しているか、そして自分自身の中での考え方を変えているのかをまとめていこうと思います。

 

目次

1)受け入れる姿勢を貫く

2)ヒトとコトを区別する

3)弱くある強さ

 

 

1)まず聞くことから始める

今回の経験の中で一番苦しかったことが、他人に打ち明けることがなかなかできなかったことでした。これは僕自身が言い出すまでの覚悟がなかなかつかなかったということが最も大きな原因ではありますが、その間に先手を打たれてしまったことでより言い出せなくなってしまったということは前回の記事に書いた通りです。

この経験から他人と接するとき、まず話をちゃんと聞くようにしようということを心がけるようになりました。

もちろん仕事上の議論の時や、初対面で関係性を作る必要があるときには僕の方から話すのですが、心理的な安全を自分に求める可能性がある人、例えば学生時代からの友人や前職の同期、今で言えばプロジェクトの参加者である高校生などの場合、まずは話を聞くことから始めることを心がけています。

悩みを抱えていても自分からすぐに話始められる人は多くありません。

だからこそ、僕自身が話したことで相手の退路をふさいだり、先に釘を刺してしまうことがないように、自分自身と同じように八方ふさがりの状態で苦しむ人が出ないように、まず話を聞く姿勢を貫き、相手が自分自身の悩みを打ち明けれらる環境を用意するようにしています。

 

この「相手の話を聞くことから始める」ことはごく当たり前のことのようですが、意識し始めてからなかなか自分も出来ていないことに気付きましたし、どうしてもレスポンスとして何か話してしまいたくなるので予想以上に難しいということに気付きました。

また、話を聞くと言っても、ただうなずいていれば良いというわけではなく、なぜ?どうやって?など話を深堀したり、学校ではどう?仕事はどう?という話を広げることも必要になってきます。

このことを感じ始めて、数か月経ち、この話を聞くということには心理学の理論や技術的なコツがあるのではと思い調べてみると、世間では1on1やコーチングという形でビジネススキルの1つになっていることがわかりました。

そんなことも知らなかったのかと言われそうですが、その当時の自分にとっては大きな発見でしたし、自分の経験からそのようなスキルの必要性を強く感じていたので、納得感もありましたし、勉強していたいという意欲もわき、今も継続して勉強中です。

(いつか参考になった本など紹介していきます。)



2)ヒトとコトを区別する

もう1つ、他人と接する際に気を付けていること、それが「ヒト」と「コト」の区別です。これは僕自身が他人から何か言われた際にも区別をつけて認識しようとしていることでもあります。

このヒトとコトの区別は多くの場面で混同されているように感じています。

例えば仕事でミスしてしまったとき、それが大きなミスで叱責を受けたとします。ここでは、ミスをした本人の人間性や能力というものが「ヒト」で、出した成果や仕事そのものが「コト」です。この時、叱責が「ヒト」に向かっているのか、「コト」に向かっているのかはちゃんと分けて判断する必要があると考えるようになりました。

本来仕事の成果に対して行うべき叱責がその人の人間性や能力に向いていたり、受け取る側も仕事の成果に対して言われているにも関わらず、自分の人間性が否定されたように感じたりしてしまうということが多々起きてしまいます。

このような「ヒト」と「コト」の混同が起きてしまうと、何か指摘やフィードバックをするたびに相手を傷つけてしまったり、そのような指摘を受けるたびに自分の精神が傷ついてしまったりということが起きてきます。

だからこそ、僕は精神疾患から復帰して真っ先にこの「ヒト」と「コト」の区別に気をつけようと思いました。僕自身が他人に対して何かを指摘する際にもそうですが、僕自身が何か指摘を受ける際にもこの区別をして受け取るようにしようと意識していきました。そうすることで、自分の存在意義や人間性に関して否定されているのか、自分の出したアウトプットに対して批判されているのかが分けて考えられるようになり、必要以上に自分の個性や特性を責めてしまい、心を傷つけてしまうことが明らかに減りました。

 

話が少し脱線してしまいますが、ちょうど今回この記事を書くきっかけになった木村花さんのニュースも、木村花さんの番組内での振る舞いという「コト」ではなく、人間性や容姿そのものという「ヒト」に対しての批判が相次いだことが問題だと感じています。

「ヒト」を批判の対象にすることは単純に悪意のナイフでめった刺しにすることと変わりません。これが問題になっている誹謗中傷です。

逆に「コト」に対する指摘は、批判としてちゃんとした議論を呼び起こす重要な役割を持っています。

だからこそ、この誹謗中傷と批判をちゃんと区別をして認識すること、そして悪意のナイフでめった刺しにした「コト」が批判されるべきだと感じています。

そして何よりも今回の事件を通して、多くの人がこの「ヒト」と「コト」の区別をすることで他人に接する際にも、自分自身が何かを受け取る際にも自分そのものの存在の安全が脅かされることがないような社会になれば良いなと思っています。


3)弱くある強さ

最後に、僕がこの精神疾患を乗り越えて一番大きく学んだことは、「弱くある強さ」があるということでした。

いままで僕は自分自身でどんな困難も乗り越えること、どんな難関にも立ち向かっていくことが「強さ」だと思ってきました。

これは僕自身の育ちの影響も多分にありますが、僕自身だけでなく誰かに頼ることが出来ない人はたくさんいると思います。これは誰かに頼るということが少し情けないという日本の文化も少し影響しているのではないかとも思いますが、都市社会の中で人同士の関係性が希薄になってきたことも影響しているのではないかと思います。

 

休職している間に訪れたカンボジアのスラムの人々の生活は決して裕福ではありませんでした。しかし、彼らは親族や友人と身を寄せ合って、計り知れないようなリスクに対して立ち向かっていました。

この光景を見た僕は、今までの一人で頑なに困難を乗り越える姿勢は間違っていたことに気付きました。人間は助け合いながら生きていくものだと頭では理解していたものの、根底のところでは助け合うということは弱いことで、本当に強い人間は助け合いを必要としないということを無意識下で思っていたのだと思います。

でも、それは幻想でした。たとえそれがたった1人でも、自分の弱さを理解して支えてくれる人たちがいること、そういう人たちに自分の弱さをさらけ出せることで、僕自身が強くいられることをこの精神疾患の間に実感しました。

そして余談(かつ専門的)にはなりますが、これが僕が大学院時代に研究していた、レジリエンスロバストネス(頑強性)との違いなんだなとはっきりと実感しました。

 

今まで僕が求めてきたのはどんな困難にも曲がらない、折れない強さでした。でもそんな強さには限界があります。より強い負荷がかかれば必ず折れてしまいます。

だからこそ、必要なのは曲がっても元に戻る、しなやかな強さでした。曲がることが出来るからこそ、結局は折れない。それが弱くある強さなんだと思います。

今回の場合、自分にとって弱くあるとは、自分の悩みを打ち明けて助けを求めるということでした。これが出来ていれば、まだあの状況でも折れずに、粘り強くいれたんだと思います。

そんな「弱くある強さ」を学んだからこそ、今悩んでいる人たちや、これから壁に当たるかもしれない人たちのために記事を書きました。

 

今回の記事で、少しでも多くの人が他人と接する際に、特に自分にとって大切な人に接する際に知らず知らずのうちにその人を傷つけたり、退路を奪うことがなくなるように、そして今少しでも悩みを抱えている人が、必要以上に心に負荷をかけすぎないように、自分自身の存在を自分自身で否定してしまわないようになったら嬉しいです。

 

今回も記事を読んでいただきありがとうございました。

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全てが真っ暗になった2か月間(1)

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こんにちは。杉谷遼です。

前回の記事から1か月以上が経ってしまいました。この間、本業の方での情報発信がメインになってしまっていました。もしよければ、以下のプロジェクトで記事を書いていますので、ご覧ください。

WASH OUT!! PROJECT:https://note.com/washout
→洗浄ハンドジェル1本につき100円がコロナによって影響を受けている途上国などに寄付されるプロジェクトです。毎回現場で活動されている方をお呼びして、現状を知ってもらうためのトーク番組を行っており、そのアーカイブになります。

 

LiD(Leadership in Development countries):https://note.com/very50_lid

→大学生向けの新興国で活躍できる次世代リーダー育成プロジェクトです。現在第2期目を開催しており、毎週の活動記録や感想を書いています。

 

さて、今回間があいてしまったにも関わらず、書こうと思ったきっかけは、木村花さんのニュースです。真相はまだわからないものの、誹謗中傷があったという事実は変わりません。このニュースと一連の騒動を見たとき、1年前の自分のことを思い出しました。

(ニュースを見られていない方はこちらから)

 

このブログを書き始めるきっかけにもなったのですが、1年前僕は「適応障害」の診断を受けました。今まで本当に楽しくやっていた仕事にストレスを感じ、自分の周囲にもそのことが言えず、全てが真っ暗になった2か月間でした。

僕の身に起きたことは木村さんの10000分の1ほどの苦しみかもしれませんが、精神的に追い詰められ、その中で「自分が生きている意味」を問い直させられた1人の経験者として、記事にしたいと思います。少しでも、精神的な苦しみの中にいる人に対する理解が深まったり、誰かを精神的に傷つける行為を思いとどまることに繋がったら嬉しいです。

 

いつもとは異なり論理的ではなく、整理もされていない、多くの人にとって「読む価値のない」記事になる可能性も高いですが、少しでも今も苦しんでいるどこかの誰かの助けになるような記事になればよいなと思います。(長くなるので2回に分けて書きます。)

 

目次

1)自分が一番よくわかっている

2)次第に起きてきた身体の異変

3)弱くなれない苦しみ

 

1)自分が一番よくわかっている

僕が仕事にストレスを感じ始めたのは新しい部署に異動して1ヵ月半が経つ頃でした。自分が希望していた部署での仕事、そして社内での公募を通っての異動だったため、しっかりと価値を出していきたい、ここで大きなことをやり遂げるんだと意気込んでいました。

最初の3週間ほどは異動したてということもあり、部署での仕事の基礎的なことや、関わる方々への挨拶回りなど、これからの仕事に向けての準備が進むような感覚で、意気込みも、そしてやる気も膨らんでいきました。

しかしその後、徐々に仕事を自分で回し始めたあたりから、異変を感じ始めました。様々な関係者が関わりながら、それでいて会社の根幹を支える部署のため抱えるリスクも大きかったため、1つの見落とし、1つのミスが会社全体の命とりになるような仕事でした。もちろんその大きなリスクを一人で抱えているわけではありませんでしたが、それでも当時の感覚からすれば、非常に大きなリスクを抱えているという認識でいました。今までそこまで大きなリスクを抱えたことはなく、自分の中でも細心の注意を払いながら、そして意気込んでいた分、周囲の期待に応えようという思いで仕事に臨んでいました。

しかし、今思えば当然なのですが、新しい仕事でそう簡単に上手くいくはずもなく、細かい見落としやミスを何回も繰り返してしまいました。僕の中では、最大限の注意をしているつもりでしたし、ミスのたびに修正を繰り返していきましたが、ミスはなくならず、至らない点があまりにも多すぎると感じてきていました。

 

今振り返ってみれば、上司の方から頂いていたFBは的確で、それを基に修正を加えて、徐々に階段を上っている状態だったのですが、当時の僕は自分のミスそのものがなくならないことにとても神経をすり減らし、自分にイラつき、そして自己肯定感が下がっていってしまいました。

真剣に受け止めるほどでもない些細なミスでも気になり、自分自身が出来ないことを自覚しているからこそ、指摘を受けるたびに心をえぐられるような痛みを感じていました。

「自分が一番出来ないことを、ミスしていることをわかってる、でも何も成長できていない」

「だから自分はダメなんだ」

というネガティブなスパイラルに陥り、段々と仕事そのものにストレスを抱えていきました。

 

2)次第に起きてきた身体の異変

このような生活が続いて、真っ先に影響が出始めたのは睡眠でした。7時に起きているにも関わらず、夜の12時を回っても眠くならない、眠っても2時には目覚めてしまう、浅い睡眠で全く寝た気分になれない等の症状が出始めていました。

この影響で、仕事中に急に眠くなることも増え、その分ミスをしていることに気付かなくなるというネガティブのスパイラルを加速させてしまいました。

そして、睡眠障害の次に出てきたのが摂食障害です。だんだんと食べ物の味がわからなくなり、今までは大好きだったものもあまり美味しいと感じられなくなってきました。その影響で食べる量もどんどんと減っていき、久しぶりに会う友達にも少し痩せた?と聞かれることも増えていきました。

 

ここで一番つらかったことは、僕の仕事に対する考え方でした。僕は仕事に対してやりがいと自己実現を本当の意味で求めて、その一点のみで就職先を決めました。給与や社会保障という部分は、最低限あれば良いという考え方だったため、自分の中でそのような報酬として仕事を位置付けることが出来ませんでしたし、他の人に対しても仕事がつらいと吐露すること=僕自身の自己実現に向かっていくのがつらいと告白することのような気がして、吐き出すことが出来ませんでした。

 

こうして、段々と自分の中でため込んでいったもので、より症状は悪化してしまいます。オフィスにいるだけで息が上がったり、手が震えて、何かをすることが怖くて急に頭の中が真っ白になったりと、ほぼパニック状態に近かったです。

 

3)弱くなれない苦しみ

しかし、そこで僕は他の人に相談することが出来ませんでした。当時の僕にとって誰かに相談すること=弱いことになっていたからです。

昔から他の人には難しいと言われてきたことでも、自分の中で何とか乗り越えて期待以上の結果を出すということを繰り返してきました。このように今まで自分の進路もある程度の困難も自分自身の中で解決をして、前に進んできたからこそ、本当に苦しいとき、その弱い部分を受け入れてくれる人が誰なのかわからなかったのです。

職場の同期も、大学時代の友人も、そして家族にまでもいつの間にか僕自身の弱さを見せることが難しくなってきていました。家では押しつぶされそうなほどのプレッシャーを感じて、必死に誰かの助けを求めて休みの日は外に出ました。でも、誰かに会うたび、自分から打ち明ける前に釘を刺されるようなことを言われてしまいました。

「仕事楽しそうにやってるよね」

「新しい部署の仕事楽しんでそう」

全く悪意がないことは頭では理解していましたが、自分の弱さを出す機会を失ってしまい、結局頑張って作った笑顔で別れるということの繰り返しになってしまいました。

こうなってしまうと、八方ふさがりの状態になり、心が沈み、身体も限界の状態になりながら毎日を過ごしていました。幸いにも、最後の最後のところで持てる力を振り絞って上司にこのことを相談することができ、精神科に通院、人事の方を通して休職をすることになりました。休職を決めたときも、正直僕の中では最後まで逃げてしまった、自分は弱い人間なんだという自責の念がぬぐえませんでした。

 

休職中、家で落ち着いて過ごす間に、僕自身の抱えていた自責の念が徐々に薄れていき、最終的には家族や友人にも打ち明けることが出来ました。今ではなぜあんなにも自分を追い込んでしまったのか、なぜあそこまで死ぬ間際のような思いをしながらも逃げることが出来なかったのか不思議で仕方がありません。確かに今でもたまに自分の中で重く受け止めすぎていると感じること、プレッシャーで寝れなくなることはありますが、あのときより上手く自分のことをコントロールできるようになっていますし、何よりもあの時本当に苦しんだ弱くなることが今の僕には出来るので、あの時のようにはならないと感じられるようになりました。

 

この経験を通じて、本当に追い詰められた人間がどんなことを感じるのか、どんなことを考えてしまうのかわかりました。悪意のある言葉は当然ですが、何気ない一言でも、その人の行く手を阻んでしまうこと、誰かの優しさに簡単に甘えられないこと、そして自ら命を絶ってしまうということにその人の強さは関係がないこと。そんなことを身をもってわからせてくれた経験でした。

だからこそ、このことを多くの人に知ってほしいですし、誹謗中傷のような悪意の拷問は絶対にやめてほしいです。そして欲を言えば、小さなサインをみんなで気付いてあげられる、自分から口に出さなくても周りが積極的なサポートが出来る社会になってほしいと本気で思っています。

僕には今こうした記事を書くことしかできませんが、この思いが多くの人に届いたら嬉しいです。

 

次回はこの経験から僕自身が他の人と接するときに気を付けるようになったことについて書きたいと思います。

 

今回も記事を読んでいただきありがとうございました。

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