杉谷遼 活動ブログ:世界をより良い場所にするために

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あなたの正義は何か-主語のない正義が溢れる現代で-

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お久しぶりです。杉谷遼です。

2021年に入り、早くも9か月が経ちましたが、その間更新が全くなく申し訳ありません。今後もマイペースな更新となりますが、引き続き読んでもらえると嬉しいです。

 

さて、そんな9か月の間を乗り越えて記事を書こうと思い立ったのは、最近の社会情勢の報道や発信などで、違和感を感じることが多くなっていて、その違和感の正体が自分の中で様々な事象や考えていることとつながったことがきっかけです。

今回は様々な事象を行き来しながら、何を善として何を悪とするのか、その判断をする「主語」の存在について書いていこうと思います。

 

目次

1)違和感の出発点

2)切っても切れない事実と認知

3)主語のある正義を語る

4)あなたの正義は何か

 

 

1)違和感の出発点

今回この記事を書こうと思った一番大きな出来事はアフガニスタン情勢の変化です。20年にも及んで駐留していた米軍の撤退と、それに伴うタリバン政権の復活。その中で国外退避を目指す人々の悲劇はニュースなどでも報道されてきました。

そんな中で違和感を感じたのは、タリバン政権の復活によって、女性の人権保護の観点やテロリストの温床になる、武力による統治が行われるなど、今後の見通しに関して悲観的な報道が非常に多かった点です。

このような変化を悪としているのは誰なのか?ということがすっぽりと抜けてしまっているように感じたからです。

 

僕たちは国際社会や近代社会という便利なグルーピングで、いつの間にか自分たち以外の暮らし(例えば民主主義や資本主義経済ではない社会の在り方)に対して、悪である、劣っているという認識を植え付けられているように感じます。自由で平等な暮らしは本当に手放しで称賛されるべきことなのか、それがなぜ正義なのかという根本的な問いが抜け落ちてしまっているように感じるのです。

 

だからこそ本来あるはずの「自由と平等という原則に立つ国際社会として」という主語と共に語られるべき、タリバン政権の統治に対して悲観的であるという議論がごく自然に、何の疑問も持たずに主語なしで成り立っているのではないでしょうか。

 

かなり前の記事になりますが、僕は出来る限り物事の両面を見るように心がけているということを書かせていただきました。

ryohsugitani.hatenablog.com

 

ここにも書いているように、欧米を中心とした国際社会スタンダードに立てば、悲観的なことと認識されるのは納得できます。ただ逆にイスラム的な考え方に立つと、必ずしも悲観的ではないのではという印象も持ちます。

このどの視点に立っている人の意見なのか?という意味で一方的な悲観的報道に対して違和感を強く感じました。

 

2)切っても切れない事実と認知

本来、善悪は主観の議論です。どんな事実に対してもそれを善とする人もいれば、悪とする人もいます。つまり、善悪はあくまでもその人がどう認知しているかの話でしかないのです。

その一方で、この事実と認知というものは僕たちがコミュニケーションをとる上で完全に切り分けることは不可能です。実際に様々なニュースや論文等が事実と認知を区分けできているかという調査をした方から伺った話によると、認知が入っていないと判定できるものは2%に満たないとのことでした。

つまり、どんなに科学的に認められている研究論文であっても、事実だけを伝えるということはほとんど出来ておらず、そこには必ず人の認知が入っているということです。

 

これも聞いた話で面白い事例なのですが、とあるアフリカの国で空港が建設されたとき、その地域の経済活動自体が一時的に落ち込んだということがあったようです。このとき、国の行政機関や国際社会はこれを空港を経由する貿易上の問題として捉えたのに対して、その地域の人々はその空港が魔女が利用している空港で、そのせいで問題が発生していたと認識していたという話です。

 

同じような話で、呪術の話もあります。西洋医学が届いていない地域において呪術による治療で症状が回復したという事例はいくつもあります。僕たちは病気になったら病院に行って、診断をしてもらい、薬を処方してもらい治療するというのが当たり前になっているせいで、呪術=まじないの類だと認識しがちですが、その地域の人からすれば、僕たちが病院に行って治療をしてもらうのと同じ認識なのです。

 

つまり病気が治るなどの事実にたどり着くロジック(=認知)というのは、本来非常に自由度が高く、それを国際政治学や医学などの広く認められている学問体系でまとめ上げることが出来たとしても、それはあくまで認知の体系であり、「学問を基盤として思考している人」としての正確さ、正しさしかないということです。
※自分自身も「学問を基盤として思考している人」の1人なので学問を冒涜する意図はありません。

 

言い換えれば、魔女や呪術といったものを事実として誤っている、劣っていると断定することは出来ず、「自分の認知としては」誤っているということしか言えないということです。

 

3)主語のある正義を語る

このように見ていくと、自分自身がどんな認知バイアスをかけて物事を見ているか、そしてそれを認知バイアスであると認識できていない状況というのが恐ろしいなと感じました。

 

ワクチンの異物混入で、陰謀論的に全人類にチップを埋め込んでいるなどという説がにわかに盛り上がっていましたが、「陰謀論があまり好きではない人」である僕としては、良くそんなことが考えられるな、ありえないよという考えですが、この説に熱狂している人ももちろんいるわけです。

 

そして、これと構造的には何ら変わりない認知バイアスが知らぬ間にかけられています。最初の話に戻ると、タリバン政権の復活が悪であるかのような報道は、知らぬ間に僕たちを支配してきていると感じます。街中で怖いよね、かわいそうだよねというような話を聞いたりするたびに、「自由と平等という原則に立つ国際社会」というグループがまるで当然のような顔をして空白の主語に居座っていることを感じます。

 

こうして知らぬ間に、そして対象について詳しくなる前に、認知バイアスによって意見が形成されてしまいます。これは、先ほどのワクチン陰謀論を知らぬ間に全員が正としてしまっているのと同じ状況です。

 

だからこそ、物事の善悪を語るとき、つまり正義を語るときには「主語」が何なのかを考えること、そして可能な限り「主語」をつけて語ることを忘れないようにしないとなと僕自身強く意識するきっかけになりました。

 

4)あなたの正義は何か

最後に、僕が現在メインで仕事をしている教育の分野に話を移すと、これもまた「主語」の存在がとても大事だなと感じています。

 

プログラムの参加者に対して教える立場として何かを教えること、伝えることは時には押し付けに、そしてもっと言ってしまえば洗脳に近いものになる可能性を常にはらんでいます。そんな中で何を頼りにそれを教えるべきだと判断するのかが大きな分かれ目になっていると感じています。

「学校の先生という公務員の立場ではない僕として」は、これは決して学習指導要領や教材のマニュアルだけであるべきではないと思っています。これらを頼りにするとき、「主語」は国や学校といったグループになっています。もちろんグループの主語が必ずしも悪いとは思っていません。今までの蓄積による効率化、国としての方針など必要な要素を含んでいることも事実です。ただその一方で、知らぬ間にそのグループの論理を押し付けてしまっている可能性は勘案しなければなりません。

 

そんな時に必要なこと、それは「自分」を「主語」にした教育だと思います。「教科書では」「世間では」こう言われているけど、「私は」「僕は」こう思うんだよねというコミュニケーションはグループの論理に押しつぶされていない「1人の人間である自分」を伝えることを通して、認知バイアスの存在に気付かせてくれる、そして参加者が自分はどう思っているのかという自分自身の認知バイアスを認識するきっかけになると思います。

 

これは何も学校や教育に限った話ではないと思います。知らず知らずのうちに僕たちは会社や所属する組織、一緒にいる人とのグループを「主語」にして、物事を語りがちです。そしてそう語るとき、往々にして「主語を明示せずに何となくの「私たち」で語っています。これは無意識のうちに、グループの共通認識という盾を掲げて、自分自身を守っている自己防衛なのではないかと感じています。

 

ただ、1人1人の可処分時間が増加し、会社に骨をうずめるのではなく、1人の人間としてどう生きるのかが大切になっていくこれからの時代、そんな自己防衛をしていても最後には誰も守ってくれない時代になっていくのではないかと思います。

 

だからこそ、グループの共通認識という盾ではなく、自分自身の正義という矛をもってこれからの時代を生きていくべきなのではないかと思います。

 

あなたの正義は何か

 

自分自身を主語としたときに何が語れるのか、自分自身がどんな認知バイアスを持っているのか僕自身も考え続けていきたいと思います。

 

今回も記事を読んでいただき、ありがとうございました。

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