杉谷遼 活動ブログ:世界をより良い場所にするために

社会課題解決を通して世界の不条理を減らすために活動しています

僕たちだけが世界を守れる唯一の可能性を持っている

f:id:ryohsugitani:20190826195127j:image

(海外メディアよりアマゾンの火災の様子)

 

こんにちは。杉谷遼です。

今回は、日本ではあまり報道されていないにも関わらず、世界的に大きな関心を集めたアマゾンの火災について記事を書きたいと思います。

 

目次

1)世界にとっての危機

2)大災害と僕たちの生活の関係

3)世界を守るためにいま出来ること

4)世界は僕たちの声で動かせる

 

1)世界にとっての危機

今回、プノンペンでの調査を終えて帰国したのち、衝撃的なニュースを目にしました。それが「アマゾン熱帯雨林での過去最大規模の火災」です。世界の20%の酸素を供給し、全世界の10%ほどの生物種が存在しているアマゾンの熱帯雨林で火災が起き、それを消し止めることが出来ないまま、過去最大規模の被害となっているとのこと。このまま火災が進むことで、森林の限界回復点を超えてしまい、自然回復は見込めないとの専門家の見方もあり、緊急を有する事態になっています。現在、様々なところで議論されている気候変動に対する影響は非常に大きく、温暖化、局所化、異常気象の進行がより一層加速することが懸念されます。

しかし、日本でこの事実を知っている人はどれほどいたでしょうか?

(個人の観測では、)連日のニュースは日韓関係が中心話題となっており、火災の様子のニュースはほとんど見かけませんでした。あっても非常に短い時間で大きくは取り上げられていなかったように感じます。

今回、なぜマスコミでこの事実が報道されなかったのか疑問に感じるとともに、僕たちの生活がこの地球規模の大災害を引き起こす火種になってしまっていることをみなさんに知っていただく機会がないことに疑問を抱き、今回この記事を書かせてもらいました。

 

2)大災害と僕たちの生活の関係

今回火災が発生している大部分はブラジルの国土ですが、 この火災はブラジル政府による過度な森林伐採が原因と言われています。この森林伐採は主に、農地獲得のために進めらているもので、例えば最も身近なものだとブラジル産の牛肉だと思いますが、牛を育てるための土地を森を切り開くことで確保しています。このような森林伐採が続くことで、森林の自己免疫機能は低下します。熱帯雨林にも関わらず、土壌が水分を保持できず森林が乾燥し、火が燃え移りやすくなり、また森林が減ることで乾燥が進み、火災が広がっていくという風にです。

このように、農地のための森林伐採によって今回の火災は発生しています。それでは、この森林伐採はブラジル政府だけに原因があるのでしょうか?

 

全くそんなことはありません。

 

むしろ、その農地で育てた作物や牛肉を消費する我々がいるからこそ、ブラジル政府には農地拡大のインセンティブが与えられていることを考えれば、本当に根本の原因には僕たちの生活があると考えています。僕たち便利な生活を支えるために、数多くの人々、生物が住む場所を失い、さらにはこの地球さえも危険にさらしていることになっているのです。

今回の一件で僕自身、そこまでのつながりがあることをちゃんと認識していたわけではありませんでした。しかし知らなかったからそれで良いのかと言われれば、

「知らなかったそのこと自体が罪なのではないか」

と感じました。

 

3)世界を守るためにいま出来ること

そんな強い後悔と反省の念を感じたからこそ、今回この記事を通して1人でも多くの人にこの事実を認識して欲しいと考えています。そして、今までこの事実を知らないままこの大災害の引き金を引き続けてしまっていた分、僕たちが今から出来ることは未来をどのようにしていくかを議論して、行動していくことだけです。

 

ブラジル産の牛肉不買運動に参加することも1つ

ブラジル政府に対する消火活動依頼の署名活動に参加することも1つ

熱帯雨林の保護団体に森林復活のための活動資金を寄付をすることも1つ

今手にとっている食品や衣類、商品がどのような過程で作られているのかを調べ続けることも1つ

そしてその事実を認識し、発信や不買行動をするのも1つ

 

いろんな行動、考え方があり、そのどれもが善いとか悪いではなく、価値のあることだと思います。その行動の1つ1つが確かな力をもってこの世界を守ることにつながっていくのだと思います。

今、この世界に生きる僕たちだけにしか、このような世界を守る可能性はありません。もう死んでしまった人でも、これから生まれる未来の世代でもありません。だからこそ、便利さを享受するだけでなく、地球のことを世界のことを見聞きして、考えて、そのために行動することが必要だと思います。

 

4)世界は僕たちの声で動かせる

最後に、今回世界では大きなムーブメントが起き、非常に多くの署名、牛肉の不買運動、輸出規制といった圧力がかかり、最初は敵対団体の仕業として無視を決め込んでいたブラジル政府が消火活動に転じました。消火活動も、消火後の活動もどのように動くか注目していきたいですが、何よりも僕たちの行動でブラジル政府という大きな力を動かすことが出来たことは非常に大きなことだと思います。

1人1人の力は小さいですが、それがどんどんと大きな力を動かして、世界を動かすことが出来る、そんな可能性を見た気がします。だからこそ、これからも自分自身の生活を見直しながら、この世界のために声を上げていきたいと思っています。

 

 

今回も記事を読んでいただきありがとうございました。

アマゾン熱帯雨林の募金活動を行なっている団体のリストが以下の記事の中部にあったので、こちらから寄付をしていただけます。(英語のページになります。)

https://www.businessinsider.com/how-to-help-amazon-rainforest-what-charities-to-donate-to-2019

 

海外団体、英語ページでの寄付に関して、不安や抵抗がある方がいるかもしれないと思ったので、個人のPolcaにて寄付金を集めています。今回のプロジェクトで寄付していただいた金額を全額、アマゾン熱帯雨林保全活動団体に寄付させていただきます。(お礼として寄付先団体の説明、寄付金の用途と寄付金額の合計をお知らせいたします)

以下からお願いします。

https://polca.jp/projects/rEZaKCRrM8h

 

以下SNSもフォローをお願いします。

Twitter:@ryohsugitani

Facebook:Ryoh Sugitani

 

夢のために4人の僕をどう扱うか

f:id:ryohsugitani:20190821193545j:image

(カンボジア・スラム街:育児をしながら賭けトランプを楽しむお母さんたち)

 

こんにちは。杉谷遼です。

前回はスラム街での調査から学んだ「人々の強さ」について書きましたが、今回は再び僕の考えていることシリーズということで、人って多面性を持っていてそれを上手くマネージして生きているのではないかという話について書いていこうと思います。

 

目次

1)僕ってどんな人間なのか

2)人の4面性モデルと経営

3)自己分析のために考えるべきこと

 

1)僕ってどんな人間なのか

今回、この記事を書こうと思ったきっかけは何のことはなく、僕が朝起きるのにめっぽう弱いなと改めて感じたことでした。正直、朝しっかりと起きて、活動をすることは自分の生産性にもつながりますし、この生産性はさらに言えば僕の成し遂げたい夢にも関わってきます。しかしながら、朝もう30分だけ眠ってしまいたくなる。それはなぜなのだろうかと考え始めたことが今回の記事の出発点です。(若干言い訳がましい気もするのですが、少なくとも自分にはかなりしっくりくる考え方だったため記事にしました。)

 

自分は日々生活する中でただ1人のじぶんであるのか怪しく感じることが多々あります。例えば、朝起きれないこともしかり、理性的に考えれば断るべき飲み会にもその一時的な楽しさを求めて参加してしまったり、普段は募金をするくらいならば自分の活動に使いたいと考えているにも関わらず、深く考えもせずぽっとある団体に募金をしてしまったり、誰にでも等しく接したいと考えているにも関わらず、打算的にある個人や団体に思い入れを持って接してしまったり。それと同時にそのような行為を諌める自分、後悔する自分がいます。

これは僕1人という一貫性を持った個人では、選択し得ないことであり、なぜこのような選択をしてしまうのか不思議で仕方なくなりました。

 

2)人の4面性モデルと経営

この疑問と、物事の本質を欲に基づいて考えるという以前紹介した考え方を組み合わせて、人の4面性モデルというモデルを考えてみました。

※「欲から物事の本質を考える」に関して詳細は以下の記事をご覧ください。

https://ryohsugitani.hatenablog.com/entry/2019/08/10/193730

 

f:id:ryohsugitani:20190821185100j:image

 

少しモデルの説明をします。横軸にはどれほど理性的か、思慮深いかをとり、縦軸には他者を思うか自己を思うかを取りました。その上で4つの領域を以下のように名付けました。

・自己を犠牲にする聖人

→利他的かつ十分な思考を持った部分です。理想の社会、世界のためには何をしたらいいのか、利他な理想状態に対して、自己を律して目的を達成しようとする人々です。簡単な言葉を使えば、他者のために自分を犠牲にする優しさと優秀さを兼ね備えた人です。

・打算的なビジネスマン

→利己的かつ十分な思考を持った部分です。自己の利益を最大化するためにはどのような手段を取れば良いかを考え、他者への配慮は2の次で、自己の利益の方が大切という人々です。簡単な言葉を使えば、自分の利益を追求する優秀な人といった感じでしょうか。

・思慮の足りないフォロワー

→利他的かつ自らでは考えようとしない部分です。自己の利益よりも他者の利益と考えていますが、自分で物事を起こすような理性的な形ではなく、利他的な実行者についていこうと考える人々です。他者のためになることいいよねと軽いノリで考えている人と言えるかもしれません。

・自堕落な悪魔

→利己的かつ深く考えない部分です。自己の都合を深く考えずに優先させていく人々ですが、彼らに任せることで本当に自分のやりたいことへと向かっていく、新たな発見をする可能性もあると考えています。

 

以上のような4面を僕たちは誰もが持っていると考えています。漫画や映画でよく天使と悪魔が言い争いをしているシーンがありますが、それはこのモデルでいう聖人と悪魔の争いだと考えています。それに利他、利己という軸を加えることでもう少し細分化してみたのがこのモデルになります。

このような4面を僕たちは持っていながら、1人の個人として行動、決断を下さなければなりません。これはまさに4人の社員を抱えた経営に似ていると感じています。どこに組織の軸を添えるのか、そしてこの4人のリソースをどのように配分して目的達成へと向かっていくのか、そんなことが人生では求められているように感じています。

 

3)自己分析のために考えること

このモデルから自己分析について考えてみましょう。自分がこのモデルに沿って考えた手順を説明します。

①まず大切なのは自らの人生のミッションがどの領域にあるかということです。多くの人が聖人、ビジネスマンの部分にあるかと思いますが、決してフォロワーや悪魔が悪いというわけではありません。人それぞれの生き方があり、そのためにどのように自分をコントロールするかということが本記事の目的だからです。

②どの領域にあるかを決めたのち、その領域内での位置を考えましょう。例えばビジネスマンであるならば、横軸と縦軸からどれほど離れている位置でしょうか。横軸から離れているのであれば他者<自己という傾向が強く、縦軸から離れていればより思慮深く、理性的なものを好む傾向ということになります。その場所に点を打ってみましょう。

③次にその点に対して他の3領域からどのような貢献が出来るか考えてみます。各領域からの矢印が長いほど貢献度合いは薄くなります。例えばビジネスマンで横軸から非常に離れている人は聖人領域からの貢献は少ない(利他的である必要がないため)と考えられます。

 

以上のように各領域の貢献までを考えられると、今まで矛盾していると感じていた行動が繋がってきます。僕の場合、朝起きれないという自堕落な悪魔的行動は、聖人としての利他性、理性に対して破壊的で、自分って本当にそれやりたかったんだっけ?と問いかけることで新たな視点や考え方を獲得するチャンスの時間だと捉えられるようになりました。確かに朝起きれないことを悔やみ、なぜかと考えていたところ本当にやりたいこと、やるべきことからずれていたということが何回かありました。これによって自分自身にとってより良い活動とは何かを考えるきっかけが得られ、新たな考え方に至ったとすると悪魔は非常に重要な役割をしたことになります。

このように、自分の多面性を認めた上で、日々の行動に意味付け、コントロールをする事でこのモデルは自己分析のためのツールになりそうだなと感じたので、記事にしました。

自分の道に迷われている方、僕と同じような悩みを持たれている方は是非試してみてください。

 

今回も記事を読んでいただきありがとうございました。

以下SNSもフォローをお願いします。

Twitter:@ryohsugitani

Facebook:Ryoh Sugitani

 

 

スラム街から見た人々の強さ

f:id:ryohsugitani:20190817193716j:image

(カンボジアプノンペン:スラム街の小道)

 

こんにちは。杉谷遼です。

前回は国際協力の場面や日常の場面で、人間の行動規範を欲という部分に見て物事の本質を見極めようという抽象的な内容について書きましたが、今回は活動レポートのような形で、実際のスラム街を訪れて感じたことという具体的な内容を書きたいと思います。

 

目次

1)実際に見たスラム街の姿

2)スラム街の人々の暮らし

3)スラム街の人々の強さ

 

1)実際に見たスラム街の姿

今回、下記のpolcaで資金をいただき、カンボジアでスラム街の調査を行わせてもらいました。

https://polca.jp/projects/dJNru6hZiZq

(調査自体は終了しましたが、資金調達はまだ継続していますので、ご支援いただけると嬉しいです。)

※polcaに支援いただいた方へお送りする活動レポートと今回の記事は別物になります。事実ベースの話と今後の追加調査も含めて実務的かつ具体的な内容の活動報告をさせていただく予定です。

 

アジアの最貧国と言われていたカンボジアも首都プノンペンは高層ビルが立ち並び、一見するとバンコクホー・チ・ミンと大きく変わらないほどの都市化が進んでいます。しかもそのスピードは驚異的でここ2、3年の間に大きく都市化が進められており、プノンペンの風景はガラリと変容しました。この急激な都市化の過程で、土地価格の高騰、再開発のための土地の接収が行われ、主に貧困層の人々が住む土地を追われ、トンレサップ・メコン川の川岸に移動したり、貧困層の家屋と家屋の間の小さなスペースに密集をしてスラム街を形成していました。(冒頭写真のような状態)

 

スラム街というと貧困層が多く、政府の目も行き届かないため、治安が悪く危険な場所というイメージがありましたが、一度足を踏み入れてみると、子供たちは興味をもって集まり、最初は警戒していた大人達も子供達への対応やこちらの態度を見て安心したのか、徐々に心を開いて案内をしてくれたりとイメージとは大きく異なる空間でした。

また、ある家庭では夕食の最中だったため、ビールを渡され、一緒に食事をしたりと、都市の中ではなかなか感じられない人間の温かみというものがスラム街には残っていると強く感じました。

今回の訪問で改めてスラム街の人々という先入観とラベル化がいかに人々の本質を見極めることを困難にしているか、百聞は一見に如かずという言葉の重みを実感しました。

 

2)スラム街の人々の暮らし

今回の調査では主に家庭訪問とインタビューをしながら、スラム街の人々の生活を描き出すことが目的でした。その過程で見えてきた1つの家庭の暮らしを紹介したいと思います。

f:id:ryohsugitani:20190817193738j:image

彼らは夫婦を中心にその兄弟、子供を合わせて8人が1つの家で暮らしており、主に家の近くでの農業で生計を立てていました。他にもTukTukドライバーをやったりと副収入を得ながら生活していました。稼ぎは少ないですが、子供達は全員学校に通っており、また生活に必要な冷蔵庫や、テレビもお金を貯めて買うことができ、さらにはBluetoothで繋げるスピーカーとマイクまで持っており、夕食どきにはカラオケを楽しんでいました。スマホは幼い子供を除いて1人1台が基本で、Youtubeで動画を見たり、SNS、ゲームで遊ぶのは当たり前というのが現状でした。

貧困層であることには間違い無いのですが、都市での労働賃金が上昇していることで、以前よりも暮らし向きは安定してきており、子供達も学校に行かせられていることから、将来に対する不安はほとんどありませんでした。

 

3)スラム街の人々の強さ

今回の調査で現状のスラム街の人々の生活に触れて、暮らし向きが安定していること、そして将来に対して希望を持てていることがわかった一方、この生活までに行き着く過程を想像してしまいました。

もともと住んでいた土地は中国資本の高層マンション建設のために接収され、新しく住む土地を探さざるを得なかったこと。そして見つけた土地は家族の規模に対して非常に狭く、建材等も徐々に集めながら、試行錯誤しながら苦労をしてなんとか家を建てたこと。家族の暮らし向きを良くするために、しっかりとお金を貯めて家電を買ったり、子供達が安心して教育を受けられるような家庭環境を作り上げてきたこと。

そんな苦労の連続で、現状のような一息つけるような生活を送ることが出来ているのだなと感じ、スラム街の人々の生きる力を強く感じました。

 

今、日本に住む僕たちはたしかに豊かな暮らしをしています。しかし、それは社会という大きな枠組みに守られているからこその豊かな暮らしではないでしょうか。

経済の成長とともに社会は僕たちの暮らしをより安定したものになるようにサポートしてくれます。その一方で、僕たちは逆境に、困難に陥ったときにそれを切り開いていく生きる強さを失っていっているのではないでしょうか。

暮らしが豊かに、便利になればなるほど、僕たち個人の生きるための強さというものは失われているのではないでしょうか。

そんな考えが今回のスラム街調査で心に残りました。

 

国際協力の活動をする上で僕がとても大事にしている視点の1つに「自分だったら出来るだろうか、こうなれるだろうか」という視点があります。この視点で見ると支援対象の人々に対するリスペクトを保ち続けることが出来るからです。

 

今回のスラム街調査で強く感じたことはまさにこの視点で、自分にはこんなに生きる強さはないと感じたからこそ心に残ったことなのだと思います。

このリスペクトの気持ちを忘れずに、その中で彼らのために何が出来るのか、より確度の高い仮説を構築しながら、活動を継続していこうと思います。

 

 

今回も記事を読んでいただきありがとうございました。

以下SNSもフォローをお願いします。

Twitter:@ryohsugitani

Facebook:Ryoh Sugitani

 

 

僕は善悪を超えた本質を見ていきたい

f:id:ryohsugitani:20190810193323j:image

(カンボジアの農村:障害を抱えながらも笑顔がたえない女の子)

 

こんにちは。杉谷遼です。

前回は祖父から聞いた話から平和について考えることについて書かせていただきました。

今回は、僕が国際協力に関わる上で大切にしている、人の動き方や社会の動き方を正しく理解するために、社会のあり方や人間の行動に対して善悪を規範として考えるのをやめようということを記事にしたいと思います。

 

目次

1)この世に絶対悪、絶対善はない

2)人間を動かすものは何か

3)欲から物事の本質を見極める

 

1)この世に絶対悪、絶対善はない

僕が国際協力に関わる上で、さらに言えば生活していく上で非常に強く意識していることが、「物事には絶対に悪いものも絶対に善いものもない」ということです。

全てのことは善い面と悪い面をあわせもっていて、それを見る人の立場や時代、シチュエーションによって善悪は移り変わるものだと考えています。

例えばイスラム教の男女差別(一般的に社会の場には男性が、女性は家庭内にいて外部との接触は基本的に認めないという考え方)の問題に関して考えて見ると、平等性の観点から女性により自由に外に出て生きる権利を認めるべきだという悪だと捉える考え方がある一方、外部からの保護という観点から家庭内で守られている女性は伝染病にかかりにくい、子供の教育がしっかりできる等の善と捉える考え方もあります。

国際協力の場面では開発という言葉をよく聞きますが、開発によって所得の安定化、向上が実現し、開発が成功する一方、開発についていけず生活環境が悪化してしまう人々も存在します。

こう考えると、物事の善悪というものはその個々人の立場や考え方によって変化するものなので、特に国際協力において言えば、対象となる人々がどのような規範をもとにして動いているのかということを理解することは、開発や支援といったものをより効果的に、本質的にするために必須であると考えています。

 

2)人間を動かすものは何か

それでは、人間の行動規範となっているものは何でしょうか。

人々は基本的に善いことを行うと考える性善説や基本的に悪の心があると考える性悪説といった話が遥か昔からありますが、僕たちの心はその時々によって変化していることを実感を持って感じていると思いますし、本当の意味での行動規範は何なのでしょうか?

 

僕は「欲」だと考えています。

 

何かが欲しい、したいという欲ももちろんですが、

こうありたい、こうなりたいというのも「欲」

この「欲」こそが人間の行動規範の本質なのではないかと考えています。

例えば先ほどの開発の例で見るならば、開発対象の人々は何の欲をもっているのでしょうか?より栄養価の高いものを食べたいと思っている、子供に教育を受けさせたいと思っている、病気や災害といったリスクに対して備えたい、今の暮らしで十分満足しているため変化しないことを望んでいる等々、何をしたいのか、何を欲しているのかによって人々の規範が形成されます。

この規範に開発自体が沿うかがプロジェクトや活動が結果を残せるかに大きく影響してくると考えています。

 

3)欲から物事の本質を見極める

僕は国際協力の場面でよく文化だから、そういう慣習だからという言葉をよく耳にするのですが、全く腹落ちしません。文化や慣習というものは人々の今までの行動や考え方が形成してきたものです。そのため、そこには必ずそのような文化や慣習が形成されることによって「欲」が満たされる状況が存在するはずです。それが何の欲なのかを突き止めた時、文化や慣習は仕方のないものと思考停止するものではなく、どのような形の支援や協力が効果的かに対する大きなヒントに変化するはずです。

 

このように、「欲」から社会のあり方や人々の行動を読み解いていくことで、その物事の本質が見えてくると僕は考えています。

国際協力や開発といった文脈だけではなく、様々な場面でこの「欲」を規範とする考え方は応用できると思います。何がしたいのか、何を求めているのか、どうありたいのかということを正しく把握することは、人間関係の上でも意見の整理や立場の整理がうまくできるようになり、どんな行動を取りそうか等の予測をつけることが出来ると考えます。

本質が見えるからこそ本質的な行動や対策が取れる、そんな考え方をみんなが出来るようになったら今の国際協力はより良くなるかもしれないと考えながらこの記事を書きました。

善悪や思考停止を超えて、その裏にある「欲」をもとに物事を考える、そんな考え方を今後も僕は続けていきたいと思っています。

 

今回も記事を読んでいただきありがとうございました。

以下SNSもフォローをお願いします。

Twitter:@ryohsugitani

Facebook:Ryoh Sugitani

 

現在polcaでカンボジア調査の資金調達をしています。

応援していただけると嬉しいです。

https://polca.jp/projects/dJNru6hZiZq

 

 

 

 

 

いつまでも忘れられない戦争の話とこれからの平和の話

f:id:ryohsugitani:20190807010129j:image

(広島県観光課から)

 

こんにちは。杉谷遼です。

前回は表現の不平等と多様性について考えを書かせていただきましたが、

今回は8月6日に書いているということで、原爆と戦争の話について、

自分が平和というものに向き合う原体験のようなことを書いていこうと思います。

 

目次

1)夏が来ると思い出すこと

2)僕は奇跡のもとに生まれた

3)僕たちは平和を繋いでいけるのか

 

1)夏が来ると思い出すこと

僕には毎年8月の晴れた日、蝉の鳴き声がアスファルトに響き渡ると思い出すことがあります。

確か小学校5、6年生の時に、今でもあると思うのですが、

祖父や祖母に戦争のことについて聞いてみましょうという宿題が出ました。

実家から30分ほどで行ける祖父母の家にお盆になると親戚同士で集まることが恒例で、

その年も自分は宿題のことは頭の片隅に置いておいて、親戚同士で集まるなかなかない機会を楽しんでいました。

数日して宿題のことを思い出した僕は、まず祖母に戦争について教えて欲しいと頼みました。

祖母は父親を戦争で亡くし、戦後も母と幼い妹を必死で養ってきたこと、当時非常に優秀な進学校を出たにも関わらず、女性というだけで就きたい職業の給料が安く、家族を養うために自分の夢を諦めるしかなかったことを話してくれました。

当時、自分が今の生活を享受できていることがどれほど幸せかわかっていなかった自分は、この話を聞いて自らの豊かさと、この先の人生を自由に選択できる特別さを実感しました。

祖母の話だけでも僕の中では大きな衝撃で、今でも忘れられない話だったのですが、祖父の話はそれをはるかに超えるほどの衝撃でした。

 

2)僕は奇跡のもとに生まれた

祖父には最初は話したくないときっぱりと断られました。

ですが、その1時間後、うっすらと涙を浮かべながら仏壇の中から1枚の冊子を持って僕に話しかけてきました。

「本当は話したくない。本当は話したくないんだ。あの時のことはもう思い出さないようにしてきたから。でもお前にはこれを伝える義務があると思うから今から話す。」

と、祖父が感情をあらわにしているところを見たことがなかった僕はびっくりしながらも祖父の話を聞きました。

 

祖父は長崎の生まれで兄弟も多く、豊かではありませんでしたが幸せな家族でした。

戦争が激化する中、祖父にも徴兵令がかかり、家族の元を離れて遠征に出ていた時でした。

8月9日午前11時2分

長崎に原爆が投下され、家に残っていた家族全員が帰らぬ人となりました。

程なく終戦となり、長崎に帰った祖父は涙が枯れるまで泣き明かし、

何かに取り憑かれたように家があったと思われる部分から人骨を探し当て集めたと言っていました。

祖父が仏壇から持ってきた冊子は家族の名簿でした。

こいつは妹でいつも遊んでやってたんだ、こいつはいたずらばっかりでな

これは姉でいつも厳しいんだけど、大変な時は本当に優しかった

あの日が昨日かのように話す祖父の顔は今でもはっきりと覚えています。

それと同時に僕がこの世に生まれてこれたことがどれほどの奇跡か思い知りました。

祖父に徴兵がかからなかったら、遠征の班に配置されなかったら、今僕はこの世に生を預かっていません。

祖母の話も合わせて僕は奇跡のもとに生まれ、そして自由で非常に幸せな人生を送らせてもらっていることに祖父母、家族だけでなく、今まで僕が生まれてくるまでにこの社会のために、日本のために、世界のために働いてくれた全ての人に感謝しなければならないと思うようになりました。

 

3)僕たちは平和を繋いでいけるのか

そう考えたときに僕はただの受益者ではありません。今までの人類の歴史の恩恵を受けるとともに明日を生きる人のために、10年後を生きる人のために、100年後を生きる人のために日本という、世界という、もっと大きい視点で言えば生命というバトンを受け取ったランナーです。

平和とは

僕はこの世界や生命を背負ったランナーが走る道だと考えています。

それも少し先の道をランナーだった人が作っていく道です。

自分自身がその道を走ることはありません。しかし荒れた道を作れば次のランナーが走れない。

道を作ることを放棄して最後まで走り続けても、次のランナーが走れない。

平和や持続可能性はそんな道のようなものだと考えています。

 

今、僕たちは確実にここでいうランナーです。

でもすぐに道を作る役割が回ってきます。そのときに僕はいい道が作れるか不安です。

世界のことも政治のことも社会のことも知らないことだらけです。

だからこそ、僕は世界を見ながら、道を作りながら今ある道を走ろうと思います。

Running & Learningという僕の目指す働き方があります。

正に道の作り方を覚えながら、道を作る。平和とは何かを広い世界を見ながら考えながら、実際に作っていく。そんな人生を歩みたいと思います。

 

最後に

8月6日 8時15分

8月9日 11時2分

この合わせて2分だけでも日本人であれば平和とは、戦争とは、そして今から僕たちが作れる平和とは考えて欲しいというのが今回の記事を書いて見て感じた最終的な思いです。

 

今回は自身でも感情的だと思いながら思ったことを記事にかいてみました。

拙い記事ですが、読んでいただきありがとうございました。

以下SNSもフォローをお願いします。

Twitter:@ryohsugitani

Facebook:Ryoh Sugitani

 

現在polcaでカンボジア調査の資金調達をしています。

応援していただけると嬉しいです。

https://polca.jp/projects/dJNru6hZiZq

 

 

表現の自由に見る多様性の根源的価値って何だろう

f:id:ryohsugitani:20190804150725j:image

(インド・コルカタのハウラー橋、河辺には多種多様な人々が集まります)

 

こんにちは。国際協力活動を行なっている杉谷遼です。

自分の生い立ちや決意についての記事が続いてしまっったので、

ちょうど良い事例もあったため、自分の考えを今回は書いていこうと思います。

テーマは「表現の自由」と「多様性」です。

 

「表現の不自由展・その後」が市長による展示内容への不満の対象になったり、

昨日には脅迫によって中止に追い込まれたということが報じられています。

詳しくは以下のニュースサイトよりご覧ください。

中日新聞https://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2019080402000069.html

 

今回、この問題の是非、政治的な良し悪しを論じる気は全くありませんが、

そもそも表現の自由って何で大切なんだろうということを多様性というワードから

深掘りしていけたらと思います。

 

目次

1)表現の自由は多様な社会のため

2)「多様性」が大切な理由って何だろう

3)対応力の源泉が「多様性」

4)現代だからこそ重要な多様性

 

1)表現の自由は多様な社会のため

今回、取り上げられている構図は、公権力や外部威力といった政治的な強い力や直接的な暴力の脅威という力と表現の自由がどのようにバランスを取るのかという構図です。

本来、力に屈することなく自由を突き通す権利が表現の自由ですが、今回この権利が十分に

守られなかったことが問題となった原因だと思います。

この表現の自由は、平和的な民主主義社会を創造していくために、活発な創造活動が行われるために

不可欠な権利としてその地位を確立したものと理解していますが、

もっと抽象的にまとめると、僕はこの表現の自由が守っているものはこの社会の多様性であると考えています。

社会が多種多様な価値観を認め、その多種多様な人々が生きずらい社会にならないように守ること、それが表現の自由の根底にある考えだと思っています。

 

2)「多様性」が大切な理由って何だろう

そこまで考えると、多方面で叫ばれている「多様性」を大切にしようといった活動と今回の問題は根底では同じことなのではないかと考えています。

そこで、もう一段階深掘りして、「多様性」ってなぜ大切なのかと考えてみたいと思います。

「多様性」ってなぜ大切だと思いますか?

多様な人々が多様な価値観を持つことを認められている状態はなぜ重要だと思いますか?

多様な生物が同じ生態系に存在している状態はなぜ重要だと思いますか?

 

いろんな答えがあっていいと思います。

その中でも僕は「多様性」が対応力、少し専門的な言葉を使うとレジリエンスの源泉になっているからだと考えています。

 

3)対応力の源泉が「多様性」

以前からですが、現代は特に多くのリスクを抱えています。

外交上のリスク、政治的なリスク、災害のリスク、人間関係のリスク等々

これらはこの世界が多面的で不確実で複雑で急速な変化をしているために生まれています。

(Volatility, Uncertainty, Complexity, Ambiguityの頭文字を取ってVUCAの時代と言われたりしています。)

そんな様々なリスクを抱えながら生活をしている僕たちは、全貌を把握できないリスクそのものを減らすことよりも、

リスクが問題化した際に対応できる能力、つまり対応力をつけておくことが重要だと考えます。

 

例えば身近な例で言えば、副業収入を持っておくことは収入源の多様性を確保することになり、

本業の倒産やリストラ等のリスクに対応する力のもとになります。

また、気候変動により生態系への影響が出た際に、様々な生物が存在した方が、生存する生物が増え、その後も生態系を維持できる可能性が高まります。

このことは生態系サービスの恩恵をあらゆる面で受けている人間にとっても他人事ではありません。

(例えば僕たちの食物を生み出している森林や河川はこの生態系によって維持されています)

今回の社会という大きな面で言えば、公権力や大きな力を持つ人々の意見以外を持つ人々が抑圧されて自由な表現、言論ができない社会というのは、

例えば世界的な枠組みで既定路線と大きな方針変更が起きた際に十分に対応できず、

経済的遅れをとってしまったり、外交上不利な立場に置かれたりという不利益を被る可能性があります。

また、この状態はデモの発生やテロのような暴力的手段に走る等、社会全体の崩壊へと進む非常に大きなリスクも抱えることになります。

 

このように、様々なリスクを抱えている現代においては、地球規模、社会全体、組織全体、個人単位といった各レイヤーで多様性を確保しておくことが対応力を維持し、外乱に対して強い状態を保つことが出来ると考えています。

 

4)現代だからこそ重要な「多様性」

リスクの多い現代だからこそ多様性が重要ということを書きましたが、

この多様性を創造、維持していくために重要なことが「つながり」だと考えています。

個人同士のつながり、組織同士のつながり、社会全体でのつながり、生態系とのつながり、

オンライン上でのつながり、不特定多数の人とのつながり

様々なつながり、つながり方があるのが現代です。

テクノロジーが進化し、全く人に会わずとも生活が出来る現代社会になっていますが、

新たな発見や出会い、そして手を取り合うこと、認め合うことが、

個人や組織、社会全体のネットワークを広げていき多様性を生みます。

現代のセーフティネットとしての多様性を見直してみてもいいのではないかと、

そんなことを考えて今回の記事を書きました。

 

 

 

今回も記事を読んでいただきありがとうございました。

以下SNSもフォローをお願いします。

Twitter:@ryohsugitani

Facebook:Ryoh Sugitani

 

現在polcaでカンボジア調査の資金調達をしています。

応援していただけると嬉しいです。

https://polca.jp/projects/dJNru6hZiZq

僕は影を見捨てない人間になりたい

f:id:ryohsugitani:20190802185440j:image

(ネパール山岳地帯:農村被災地域でも前向きに暮らすお母さん)

こんにちは。杉谷遼です。

 

前回は「社会問題解決」を自分の人生の目標にしていこうという決意を書きましたが、

今回はより具体的に僕が途上国と言われる地域で見てきた光と影の影の部分について書いていこうと思います。

 

目次

1)タイの物乞いとの出会い

2)インドの不可触民との出会い

3)途上国の光と影

4)影を見捨てない人間になりたい

 

 

1)タイの物乞いとの出会い

最初に途上国の影を見たのは初めての記事でも書いたように、中学生の時に訪れたタイの物乞いでした。

当時、発展真っ只中にあったタイは高層ビルの建設、完成が続く一方、

街には多くの物乞いの人々があふれていました。観光客だとみるや否や、

手を出し金をくれと全くわからない言葉で詰め寄ってきます。

子供ながらその人々の放つ負のオーラと絶望感に耐えられず、

足早にその場から逃げ去ってしまいたい衝動にかられました。

しかし、その場で一緒にいた母親は「これが世界の広さ、目を背けてはいけない」

とでも言わんばかりにゆっくりと歩くので、自分もその現実を直視しました。

病気や栄養失調で動けなくなった子供を見せ物にして物乞いをする母親、

障害や傷病で手足がないことをこれでもかと見せてくる男性、

今でもあの光景は目の裏に焼き付いています。

 

2)インドの不可触民との出会い

タイでの経験もあり、それから訪れたネパール、カンボジアベトナム等でも

同様の経験をしましたが、その度に世界には大きな影があると認識するものの

耐性が出来てきたためか、当時のタイでの経験ほど大きなショックを受けることはなくなっていました。

しかし、その中で昨年数ヶ月間インドのコルカタに出張している際に

インドの不可触民の人たちと周囲の人々との関係を目の前にした時、大きな衝撃を受けました。

インドでは法律上カースト制度は禁止されていますが、現在でも人々の生活、

とりわけ仕事や結婚といった中心的な部分を支配しており、カーストが違うから

そんな仕事は出来ない、カーストが違うから今の彼氏と結婚は出来ない等の言葉を

現地のスタッフからも聞きました。

不可触民とはそのカーストの階級の中にすら位置しない、最低層の身分の人々です。

彼ら彼女らには仕事があったとしても排泄物の清掃等、誰もやりたがらないような仕事が割り当てられ、

仕事にすらつけない人々も多数いました。

そんな人々は路上生活を強いられることも多く、バス停やテナントが入っていない物件の前等で細々と暮らしていました。

そこで一番衝撃を受けたのは、周囲の人々が不可触民の人々をいないものとして扱っていることでした。

寝床にしている毛布の上に平然と土足で立ち入る、

お金を恵んでもらうための小さなカゴを蹴り飛ばしても振り返りもしない

そんな光景を目の前にして、ここには完全に断絶されてしまった世界があると感じました。

 

3)途上国の光と影

インドは現在発展の一途を辿っており、経済成長も著しい国です。

IT人材が豊富なこと、英語話者も多いことから今後間違いなく中国とともに世界の中心になっていく国の1つです。

そんな経済成長の影には人とも思われない不可触民の人々が取り残されていくという現実があります。

タイにしても同様です。首都バンコクは今や東南アジアで最も大きな経済都市の1つです。

しかし、昨年訪れた際には、高級ホテルの横の塀で覆われた空き地から、物乞いの人々が出てくるのを目撃しました。

今でもそのような人々が残っていること以上に、塀を作りそのような現実が表からは見えないようにしていたことが衝撃でした。

「国の発展という光の中で、臭いものには蓋をするような形で影の部分を隠している」

そんな現実が途上国には沢山あります。

今の日本が完璧かと言われれば全くそんなことはありませんが、

途上国の現実と比べれば抱えている問題の数、大きさはまだ軽度であると考えています。

だからこそ僕は途上国の影に挑戦したいと思っています。

※日本の社会問題に取り組まなくても良いという趣旨ではありません。個人として途上国の問題の方が重要だと考えているという個人の見解です。

 

4)影を見捨てない人間になりたい

僕は今まで途上国というところには問題も沢山あるけど、その分良いところもある、

だからこそその良い部分を一緒に光らせられるようにしたいと考えて活動してきました。

しかし、その活動の過程で見てきた現実を一旦置いておくことは出来ない自分がいることに気づいてしまいました。

だからこそ、今後僕は途上国の影で苦しむ人々を見捨てずに、少しでもその人々を苦しめているシステムや根源に立ち向かっていきたいと思っています。

光を見続けてきたからこそ考えられる視点で影を見る、そこには何か違うものが生まれるのではないかと自分は考えています。

「One more smile, one less pain」

という言葉を自分は大切にしていきます。

誰かの笑顔を増やすために、誰かの苦痛を生んではいけない

だからこそ光の笑顔を増やしながらも、影の涙を減らせるような世界のために活動していきます。

 

 

今回も記事を読んでいただきありがとうございました。

以下SNSもフォローをお願いします。

Twitter:@ryohsugitani

Facebook:Ryoh Sugitani

 

現在polcaでカンボジア調査の資金調達をしています。

応援していただけると嬉しいです。

https://polca.jp/projects/dJNru6hZiZq