杉谷遼 活動ブログ:世界をより良い場所にするために

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全てが真っ暗になった2か月間(2)

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こんにちは。杉谷遼です。

今回は前回に引き続き、僕が適応障害と診断されてからのことについて書いていこうと思います。前回はどのような状態になってしまうのか、どんな苦しみを感じるのかについて体験したことをもとに書きました。

もしまだ読まれていない場合には以下よりぜひご覧ください。

https://ryohsugitani.hatenablog.com/entry/2020/05/31/201902

 

今回は、前回の体験をもとに、僕がそれからどんなことに気を付けて人と接しているか、そして自分自身の中での考え方を変えているのかをまとめていこうと思います。

 

目次

1)受け入れる姿勢を貫く

2)ヒトとコトを区別する

3)弱くある強さ

 

 

1)まず聞くことから始める

今回の経験の中で一番苦しかったことが、他人に打ち明けることがなかなかできなかったことでした。これは僕自身が言い出すまでの覚悟がなかなかつかなかったということが最も大きな原因ではありますが、その間に先手を打たれてしまったことでより言い出せなくなってしまったということは前回の記事に書いた通りです。

この経験から他人と接するとき、まず話をちゃんと聞くようにしようということを心がけるようになりました。

もちろん仕事上の議論の時や、初対面で関係性を作る必要があるときには僕の方から話すのですが、心理的な安全を自分に求める可能性がある人、例えば学生時代からの友人や前職の同期、今で言えばプロジェクトの参加者である高校生などの場合、まずは話を聞くことから始めることを心がけています。

悩みを抱えていても自分からすぐに話始められる人は多くありません。

だからこそ、僕自身が話したことで相手の退路をふさいだり、先に釘を刺してしまうことがないように、自分自身と同じように八方ふさがりの状態で苦しむ人が出ないように、まず話を聞く姿勢を貫き、相手が自分自身の悩みを打ち明けれらる環境を用意するようにしています。

 

この「相手の話を聞くことから始める」ことはごく当たり前のことのようですが、意識し始めてからなかなか自分も出来ていないことに気付きましたし、どうしてもレスポンスとして何か話してしまいたくなるので予想以上に難しいということに気付きました。

また、話を聞くと言っても、ただうなずいていれば良いというわけではなく、なぜ?どうやって?など話を深堀したり、学校ではどう?仕事はどう?という話を広げることも必要になってきます。

このことを感じ始めて、数か月経ち、この話を聞くということには心理学の理論や技術的なコツがあるのではと思い調べてみると、世間では1on1やコーチングという形でビジネススキルの1つになっていることがわかりました。

そんなことも知らなかったのかと言われそうですが、その当時の自分にとっては大きな発見でしたし、自分の経験からそのようなスキルの必要性を強く感じていたので、納得感もありましたし、勉強していたいという意欲もわき、今も継続して勉強中です。

(いつか参考になった本など紹介していきます。)



2)ヒトとコトを区別する

もう1つ、他人と接する際に気を付けていること、それが「ヒト」と「コト」の区別です。これは僕自身が他人から何か言われた際にも区別をつけて認識しようとしていることでもあります。

このヒトとコトの区別は多くの場面で混同されているように感じています。

例えば仕事でミスしてしまったとき、それが大きなミスで叱責を受けたとします。ここでは、ミスをした本人の人間性や能力というものが「ヒト」で、出した成果や仕事そのものが「コト」です。この時、叱責が「ヒト」に向かっているのか、「コト」に向かっているのかはちゃんと分けて判断する必要があると考えるようになりました。

本来仕事の成果に対して行うべき叱責がその人の人間性や能力に向いていたり、受け取る側も仕事の成果に対して言われているにも関わらず、自分の人間性が否定されたように感じたりしてしまうということが多々起きてしまいます。

このような「ヒト」と「コト」の混同が起きてしまうと、何か指摘やフィードバックをするたびに相手を傷つけてしまったり、そのような指摘を受けるたびに自分の精神が傷ついてしまったりということが起きてきます。

だからこそ、僕は精神疾患から復帰して真っ先にこの「ヒト」と「コト」の区別に気をつけようと思いました。僕自身が他人に対して何かを指摘する際にもそうですが、僕自身が何か指摘を受ける際にもこの区別をして受け取るようにしようと意識していきました。そうすることで、自分の存在意義や人間性に関して否定されているのか、自分の出したアウトプットに対して批判されているのかが分けて考えられるようになり、必要以上に自分の個性や特性を責めてしまい、心を傷つけてしまうことが明らかに減りました。

 

話が少し脱線してしまいますが、ちょうど今回この記事を書くきっかけになった木村花さんのニュースも、木村花さんの番組内での振る舞いという「コト」ではなく、人間性や容姿そのものという「ヒト」に対しての批判が相次いだことが問題だと感じています。

「ヒト」を批判の対象にすることは単純に悪意のナイフでめった刺しにすることと変わりません。これが問題になっている誹謗中傷です。

逆に「コト」に対する指摘は、批判としてちゃんとした議論を呼び起こす重要な役割を持っています。

だからこそ、この誹謗中傷と批判をちゃんと区別をして認識すること、そして悪意のナイフでめった刺しにした「コト」が批判されるべきだと感じています。

そして何よりも今回の事件を通して、多くの人がこの「ヒト」と「コト」の区別をすることで他人に接する際にも、自分自身が何かを受け取る際にも自分そのものの存在の安全が脅かされることがないような社会になれば良いなと思っています。


3)弱くある強さ

最後に、僕がこの精神疾患を乗り越えて一番大きく学んだことは、「弱くある強さ」があるということでした。

いままで僕は自分自身でどんな困難も乗り越えること、どんな難関にも立ち向かっていくことが「強さ」だと思ってきました。

これは僕自身の育ちの影響も多分にありますが、僕自身だけでなく誰かに頼ることが出来ない人はたくさんいると思います。これは誰かに頼るということが少し情けないという日本の文化も少し影響しているのではないかとも思いますが、都市社会の中で人同士の関係性が希薄になってきたことも影響しているのではないかと思います。

 

休職している間に訪れたカンボジアのスラムの人々の生活は決して裕福ではありませんでした。しかし、彼らは親族や友人と身を寄せ合って、計り知れないようなリスクに対して立ち向かっていました。

この光景を見た僕は、今までの一人で頑なに困難を乗り越える姿勢は間違っていたことに気付きました。人間は助け合いながら生きていくものだと頭では理解していたものの、根底のところでは助け合うということは弱いことで、本当に強い人間は助け合いを必要としないということを無意識下で思っていたのだと思います。

でも、それは幻想でした。たとえそれがたった1人でも、自分の弱さを理解して支えてくれる人たちがいること、そういう人たちに自分の弱さをさらけ出せることで、僕自身が強くいられることをこの精神疾患の間に実感しました。

そして余談(かつ専門的)にはなりますが、これが僕が大学院時代に研究していた、レジリエンスロバストネス(頑強性)との違いなんだなとはっきりと実感しました。

 

今まで僕が求めてきたのはどんな困難にも曲がらない、折れない強さでした。でもそんな強さには限界があります。より強い負荷がかかれば必ず折れてしまいます。

だからこそ、必要なのは曲がっても元に戻る、しなやかな強さでした。曲がることが出来るからこそ、結局は折れない。それが弱くある強さなんだと思います。

今回の場合、自分にとって弱くあるとは、自分の悩みを打ち明けて助けを求めるということでした。これが出来ていれば、まだあの状況でも折れずに、粘り強くいれたんだと思います。

そんな「弱くある強さ」を学んだからこそ、今悩んでいる人たちや、これから壁に当たるかもしれない人たちのために記事を書きました。

 

今回の記事で、少しでも多くの人が他人と接する際に、特に自分にとって大切な人に接する際に知らず知らずのうちにその人を傷つけたり、退路を奪うことがなくなるように、そして今少しでも悩みを抱えている人が、必要以上に心に負荷をかけすぎないように、自分自身の存在を自分自身で否定してしまわないようになったら嬉しいです。

 

今回も記事を読んでいただきありがとうございました。

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